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zoom RSS 「太陽のない街」徳永直、プロレタリア文学の代表作

<<   作成日時 : 2018/07/27 06:53   >>

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いうまでもなく日本の戦前のプロレタリア作品の代表作である。昭和4年、1929年
6月から11月まで「戦旗」に連載された徳永直の出世作である。また海外にも早くから
紹介されている。作者自身が1926年、大正15年に体験した共同印刷の労働争議を
ベースに描いた長編小説である。完結しないうちに、発表されなかった最終章と「
附記」が加えられて、戦旗社から単行本で刊行された。1929年11月、「附記」において
「散在する旧争議団、旧評議会の同志に詫びる!モデルが全て現存者であるために
、本名であったりなかったり、また事実は幾分相違している」と書いている。

 徳永の戦後の文章でもあの「争議」でともに闘った人々が「自分達の闘争」の記録を
書いてほしいと徳永自身に要望したとも書いているが、実は「争議」の記録の忠実な
再現でもない。争議の発生期日も異なっているがその理由はよく分からない。

 なにを持ってプロレタリア文学の代表的作品とするかは小林多喜二の「蟹工船」、
「党生活者」など多数の作品があげられるが実際の労働体験による長編小説とな
ると徳川直がまず代表となろう。しょせン労働者は搾取されている、それをはますます
現代性を帯びている問題だが、日本特有の「弾圧の手段としての打出の小槌としての
近代天皇制」を持つ国家形態では、又困難さが加わる。「太陽のない街」冒頭部は示唆
に富む。

 あらすじは以下のとおり。

 『太陽のない街』の世界は、まず特徴、冒頭辺りに天皇制への疑問が提示されてい
る。摂政宮の通行を見守る人々の中でビラが撒かれた。摂政宮の訪問先、東京高等
師範が建てられている高台とその向かい側の台地との間に「谷底の街」、これが日の
射さない「太陽のない街」である。そこで暮らし働く労働者とその家族はそこにある大同
印刷(共同印刷)の鋳造課の仲間38人の首切りに反対してストライキに入り、その争議
への支持を訴えるビラであった。

 その組合は、日本労働組合評議会という戦闘的な全国組織に所属していた。これに
対して、三井財閥の巨頭の一人であった大同(共同)印刷社長の大川じゃ、これを機会
に戦闘的組織に加入の自社の組合を根絶しようとしてロックアウトという強硬手段に
打って出た。

 労働者たちは「既に五十余日闘って来た」。昼は行商隊を組み、夜は、婦人部の役
員会に出る春木高枝のような女性も多くいた。だが労働者の団結を切り崩そうとする
動きも始まっていた。高枝とその妹の加代の父親は工場の職長の吉田を恩人と考え
えていて、加代に早く工場に戻れという。争議団は運動会を開いては組合員と家族と
の団結を図ろうとした。

 社長の大川は、これまでライバルであった三菱財閥の総帥、渋阪男爵とも協力し、
得意先の出版社の調停も拒否した。徒弟制度に縛られている少年工を連れ出して、
別の工場で働かせるという策謀も実行されようとしていた。争議団が此の少年工
達を運ぶトラックを追跡し、警備のヤクザと乱闘の末、連れ戻すという事件も起きた


 『太陽のない街』は、ひとつの極に大川社長を筆頭とする財界の上層部の動きを
見据えて、他方で争議を指導する評議会の最高幹部の動きを描き、その間にいる
出版業界の経営者達、市会議員、警察、労働者、その家族、協力する他の労働者
、争議団を応援する消費組合など、多様な階級、階層、の多くの人物が活躍する
という非常にスケールの大きな、また読者を飽きさせないことを重視しての場面転換
の迅速さも際立っている。

 その複雑多様な局面を展開させるのは争議の推移である。だが争議の記録自体
が目的でない小説のため、ストーリーを縫い合わせる赤い糸として婦人部の役員の
高枝、妹の加代をめぐる物語がある。

 徐々に争議は追い詰められていった。その中で若い労働者の宮地は社長の大川
宅の放火を試みて、未遂に終わり、高枝たちに別れを告げて自首する。そのとき、
宮地は恋人の加代が自分の子供を身ごもっていることを知らない。争議団の経済を
支えていた消費組合の力も底をついてきた。そういう時、高枝、加代は警察に検束
される。高枝は釈放されたが、加代の拘束は続いた。やっと釈放されてももう出産の
体力健康も失って短い生涯を閉じる。

 社長の大川はかねてからの計略をあらわにし、支配下の王子製紙などの評議会系
組合員の首切りを行った。労働者達は工場を破壊する行動に打って出た。強気の大
河社長は争議団全員2700名の解雇を決定する。

 妹の加代の死に絶望してい高枝は大川の孫に近づき、此の孫は食中毒で死んだ。

 組合に力はほとんどなく、最後の大会で屈辱的な妥協案が受け入れられた。青年と
婦人たちはこれまでの闘いの団旗をもって退場した。

  以上。

 作者の徳川直は1899年、明治32年3月11日、熊本市外黒髪村に生まれた。小学校
を中退し、印刷工場の徒弟となり、以後九州でさまざまな労働者としての生活を続け
、この間に社会主義思想に近づいた。1922年、大正11年上京し、山川均のもとに寄寓
し、間もなく博文館印刷(共同印刷)で働き始めた。出版従業員組合の中心として活躍
し、その間に後年の私小説的な佳作「最初の記憶」等の原型ともいえる「馬」、「あまり
者」ともに1925年、などの習作を書いた。1926年1月から3月にいたる共同印刷での大
争議に敗れて、多くの同僚とともに失職。翌年から失業した仲間達と印刷工場を始めた
が、1929年、昭和4年、共同印刷争議を描いた「太陽のない街」を「戦旗」に連載。これが
一躍プロレタリア文学の画期的な作品として広く認められ、その後「能率委員会」、「失業
都市東京」、「嵐を衝いて」、「赤色スポーツ」、「ファッショ」等の作品を発表。1934年、昭
和9年2月の作家同盟解散後は雑誌「文学評論」に拠って、この頃からゴーリキーの自伝
的作品に学び始め、「八年制」など自らの労働者としての体験、人生観を投影した私小説
的方法による文学的成熟を示した。戦争の進行による重圧の中長編「光をかかぐる人た
ち」などの歴史小説にその抵抗精神を表した。敗戦後は新日本文学会に加入し、戦後
民主主義手文学の代表作ともなった「妻よ、ねむれ」1946年、「静かなる山々」1952年。

 「太陽のない街」発表後、作者は「『太陽のない街』は如何にして制作されたか」を発表
、「読者をインテリ層には置かず、労働者においた」、そして「まず読ませよ」と強く主張し
た。つまり大衆性を強く意識したものとなっていることを吐露した。「生活のない処に、小
説はない。すべて生活が決定する。小説作法の謎は、末の末の問題だ」で締めくくって
いる。

 「労働の持つ内容は・・・・・・・人類を益するものだ」と強調する徳永は、重苦しい弾圧
の時代の制約のために、この資本主義社会では「労働」は喜びでなく疎外されたもの
になるという論点、マルクス主義的思想を押し出すことが出来ない。だが作品ではその
根本を棚上げしているわけではない。

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