つぶやき館

アクセスカウンタ

zoom RSS 井伏鱒二が見た木山捷平、木下夕爾の詩

<<   作成日時 : 2016/04/09 22:33   >>

トラックバック 0 / コメント 0

  井伏鱒二にとって身近な詩人は意味合いは大いに異なるが木下夕爾と
、もうひとりは作家の木山捷平がいた、といえる。木山捷平が詩人かと思う
人もいるだろうが、小説家というより、初期は詩人として具眼の人に知られた
存在だった。対して木下夕爾は純粋な意味で詩人である。英語にも翻訳され
、その評価は世界的である。実際、私が二人の詩を読み比べるとき、木山捷
平が何かあまりに卑俗を極める言葉で実体験を私小説ならぬ私詩のように
書いている、いたって田舎臭い(全作品を通じて田舎臭さは強烈といえる)の
に対し、木下夕爾の凛とした詩的精神の発露は、これぞ詩人と思わせるもの
がある。ふたりともその文学的生涯は無名と言えるが、特に木下夕爾は東京
には出ることなく,(現在は福山市)駅家町の万能倉で木下薬局を営みながら
孤独な試作にふけっていた。木山捷平は満州から昭和21年8月に郷里の新山
村に帰り、そこで生活をして昭和24年、ひとまず単身で上京した。無名とはい
え、文壇に属し、多くの文士たちと交友を持っていた。木下夕爾はあまりに孤
独であった。

 さて、木山捷平だが詩人かもしれないが、詩が好きであったことの方が印象
に残る。別に揶揄ではないが、地元で身近といえる存在だけに、その分、評
価も厳しくならざるを得ないのかもしれない。その文学的生涯で名の知れて
いる小説はといえば、昭和37年、1962年、文部大臣賞を受賞した満州での
生活経験を描いた『大陸の細道』くらいであろう。他は小品、短編ばかりであ
る。晩年は俳句にも凝っていた。

  木山捷平の生家  2011年10月27日

 
画像


 捷平のある短編に旧制中学卒業が近いのにクラスで一人進路も決まらず、
・・・・・・ある日、捷平が父親に「わしを早稲田の文科にいかせてくれ」と言った
ら、父親はブルブル震えて「子を知るに父に如くはなし。早稲田の文科など不
良の行くところじゃ!わしがお前を引率して農業をやらせ、軟弱な精神を・・・」
とか言ったそうだが、本は遠の昔になくなったので記憶を辿ってだが、・・・・・。
「子に文才なし」と言いたかったのか、どうか。だが、・・・捷平より新山小学校
で一学年下であった祖母の話では「捷さんの家は落ちぶれて貧しかった。東
京の大学なんかにとても行かせられる経済状況じゃなかった」ということであ
る。

   木山捷平がどのていど無名であったかという例証があることはある。地元
のかっての新山村で笠岡市山口の地元民は捷平が『大陸の細道』で昭和37
年、文部大臣賞を受賞した時、・・・小説家をやっていたとはほとんど誰も知ら
ず、・・・・・

 「捷さんが小説を書いたそーな」

 と驚きの念を持って受け止められた。さらにそれ以前の話だが、捷平の長
男の萬里氏の結婚相手ということで地元の笠岡市山口の『まつや』という旅
館の娘さんをいただきたいと話を持ち込んできた。さりながら、木山捷平が
何か東京で物書きをやっているらしいという、かすかな噂があった程度、まだ
受賞の前で、「小説家なんて信じられない」とばかりこの縁談を『まつや』は断
ったのである。その後文部大臣賞受賞で、『娘をやっておくんだった』と多少、
後悔したそうだ。慶応の経済をでてその後、最終的に東京ガスの常務取締役
になったというから、結果としては惜しい縁談だったと、後から考えて、言える
だろうか。

 なお余談だが捷平の夫人の、みさをさんが、・・・いつだったか宮中での「歌
会始」に招かれ、その歌が詠まれた、ということがあった。「大陸の細道」の文
部大臣賞受賞以後のことだとは思うが、・・・・。

 この時、ちょっと奇妙な話がある。萬里氏は慶応大学の経済学部だが、・・・
縁談を持ち込んださい、「一橋大学の受験を繰り返していて、浪人中?」など
と言っていたことである。それじゃ結婚出来なはずだが、実際は慶応の経済
でそれで立派なはずだが、・・・・、一橋大に不合格になられていたことは確か
そう。

 ★ 井伏鱒二の『木山捷平の詩と日記』より

 『・・・ことに木山くんの詩には、ぶっきら棒の感じのものが少なくない。私は
木山君のものでは,第二詩集以後の作品を見ているが、今度は暇に任せて
「木山捷平全集」(講談社版)から初期のものを読みなおした。第一詩集「野」
(昭和4年5月刊行)の冒頭に出ている詩はどうか、・・・

       飯を食う音

  人間が飯を食う音を

  公衆食堂できいていると

  丁度猫が水をなめているような

  ああ、夕暮れどきのさみしさよ

  人間が十五銭の皿をなめている  (大正十四年)

  木山君の詩は自分の体験を記しているものなので、書いた年号と数字を
必ず終わりに入れている。これは初期の頃から最晩年までずっとそれに変
わりがない。

 その頃、田舎にいた木山君は、東京の若い詩人、宵島俊吉にあこがれて、
宵島の通学している東洋大学へ入るため上京した。若い天才詩人と云われ
て大変な評判であったところが反骨精神の旺盛な宵島は、学校の経営方針
に反発して、学校の幹部と衝突し、当時の学長を殴ったため退学処分となり、
刑罰も受けた。詩はいっさい書かなくなった。木山君はあこがれの人が去る
と同時に退学してしまったが、・・・・・。

  林檎を描くセザンヌの心を学べ、というのが木山君の遵奉しやた捷平の
象徴主義」であり、木山君の一生の作詩態度であった。書くことは自己の美
意識を淘汰する事業である。後に残るのは地味な言葉で綴られる体験とい
うことになって来る。

 私は「詩篇拾遺」の「妻」という詩を読んだ時、笑ってはいけないとは思い
ながら、つい笑ってしまった。

       妻

  団子や芋を食うので

  妻はよく屁をひるなり

  少しは遠慮もするならん

  それでも出るならん

  しかしぼくはつくづく

  離縁がしたく思うなり

                (昭和22年)新山村在住の時

   この詩は古川洋三の紹介で当時の山陽新報(現在の山陽新聞)に送ら
れたそうだ。この新聞は岡山県の誇りとされている非常に真面目な新聞であ
る。どうもこの詩の語句は詩的情緒に欠け、品位にも欠けている。捷平は往
々にしてこの種の詩が多い。山陽新報社の学芸部はそういう判断をして掲載
を保留としたそうである。確かに「詩人」は書いたとは思えない詩ではある」

 以上が井伏鱒二の『木山捷平の詩と日記』からの部分引用である。

 ただ昭和22年といえば家族で新山村(当時はまだ笠岡市と合併していなかっ
たと思うが?)で生活していた。木山捷平は酒癖が悪く、酒に酔っては暴力を
ふるい、奥さんが裸足で井笠鉄道の線路辺りまで逃げたとか、いう噂があっ
た。酒を買うため、奥さんが石橋屋という店に出かけていたが、その下駄の音
が印象に残っているとうちの母親は回顧している。ただ昭和24年にはまだドサ
クサの東京に単身上京しているから、文学への志、熱意はなみなみならぬも
のがあったことは間違いなくあったはずである。


  ★ 井伏鱒二「厄除け詩集」の英訳の許可の依頼に対して、「私の詩を
訳すくらいなら木下夕爾の詩を訳せ。夕爾こそ本当の詩人だ」

 井伏鱒二は1970年11月に笠岡市古城山に木山捷平の詩碑が出来た時
もその記念式典に参加している。詩碑といえばもう一つ市立図書館敷地に
あの「五十年」という河盛好蔵が評価し、愛好している詩の詩碑が建てられ
ている、・・・・が

 結局、井伏鱒二は木山捷平熨の詩など本音では全く評価していなかった
ことだけは確かである。木山捷平の異常な詩好きは認めているだけのこと
であろう。やや失礼だが中には評価すべき詩もあるが、「下手の横好き」と
いう表現もあながち的外れではないだろう。
 
  木山捷平の詩にせよ、小説にせよ、井伏鱒二が感じたことは一般読者
が感じるようなことと変わりはない。木山捷平の全体の作品についていえ
ることだが、端的に言えば垢抜けない、洗練されていない、卑俗で下品で
、いかにも田舎びた表現の横行、・・・である。「飄逸味」という魅力は確か
にあるであろうが。垢抜けがしない、田舎臭い卑俗な表現に満ちている、
のも魅力と感じる人もいるわけだろう。

 ところで木山捷平の研究を生涯のテーマとして取り組まれた人として、
元矢掛高校国語科教師で後に倉敷市立短大教授になられた定兼恒ニ
先生が挙げられる。これは木山捷平が矢掛高校の前身の旧制矢掛中学
を卒業していることの縁もあったはずだが、「木山捷平研究」、「木山捷平
の世界」などの著書も上梓されている。大変、謙虚でおとなしい先生だっ
たという印象がある。

 ★ 備後の詩人 木下夕爾

 
 井伏鱒二と深い交友を持った詩人としては、なんといっても木下夕爾が
挙げられるであろう。井伏鱒二の言葉、自身の『厄除け詩集』をアメリカの
日本文学者のロバート・エップ氏がその翻訳の許可を求めてきたことに対
し、井伏は、

 「私の詩を訳すくらいなら木下夕爾の詩を訳せ、夕爾こそが本当の詩人
だ。それに比べれば私の詩など、単なる気まぐれのようなものだ」

 そこでロバート・エップ氏(UCLA教授)は「井伏さんの勧めで木下夕爾の
詩を翻訳していきました、・・・。もう読めば読むほど深く心に染みわたりま
た。これは私だけの感想ではないようで、家族や友人に読んで聞かせたら、
『今まで読んだ氏の中で夕爾の詩が一番いいと言うのです」

 ロバート・エップ氏が英訳した木下夕爾の詩集「Tree Like」は1979年に
日米親善文学大賞を受賞した。さらに木下夕爾はイギリスの文豪、トーマ
ス・ハーディと比較され、絶賛された。

 井伏鱒二は最初の疎開先である甲府が空襲にあい、再疎開で生まれ
故郷の広島県深安郡加茂村(現福山市加茂町)の生家に帰ってきた。

 木下夕爾は早稲田高等学院在学中、養父が急逝し、実家の薬局を継が
ねばならなくなり、名古屋の薬学専門学校に進学した。東京で文学の道を
志すという希望は断たれた。故里の御幸村に帰っていった。だが東京での
創作活動への未練はなお断ちきれなかった。

  早稲田高等学院時代の木下夕爾

  
画像


 加茂町に疎開で帰ってきた井伏鱒二と深安郡の御幸村の木下夕爾との
交流が始まった。加茂の井伏の生家を夕爾も幾度となく訪れた。

 井伏鱒二氏の甥の井伏章典氏の回想

  
画像


 「私はよく叔父(井伏鱒二)と酒を飲んでいろんな話を聞きました。その中
で叔父は夕爾さんのことを、これから伸びる人だ、と言っていました。夕爾
さんは本当に真摯で真面目な方でした。また山野の渓流に叔父と夕爾さん
、それと私でよく釣りに行ったんですが、叔父は下手くそでなかなか釣れな
いんです。でも、夕爾さんはうまかった。でちょっと気の毒に思ったんでしょ
うか、インチキみたいなことをやって叔父に花を持たせてくれたり、・・・・・
自分が釣った魚をわざと落として叔父を勝たせてくれたんです」

  夕爾と井伏鱒二

 
画像


  備後、岡山県西部には井伏を始め、藤原審爾、木山捷平、大江健次
、フランス文学者の村上菊一郎などが疎開して帰ってきた。

  
画像


 彼らはカフェーなどで頻繁な会合を繰り返し、あたかも東京の文化サロン
が越してきたような華やかさであったともいう。「木山捷平の詩と日記」でも
井伏らが笠岡で木山捷平と飲んだ話が記されている。

 しかし井伏は昭和22年、1947年、東京に戻っていった。他のメンバーたち
も次々と東京に戻っていった。再び夕爾は一人になってしまった。井伏が去
ってからも夕爾は自らの詩、原稿を井伏の元に送り続けた。この頃、夕爾が
書いた詩「東京行」


        東京行    近江卓爾兄に示す       木下夕爾作

  金をこさえて東京へ行って来よう

  そう思って縄をなっている

  行ってどうということもないが

  昔住んでいた大学町附近

  過ぎ去った青春について今さら悲歎にくれてもみたい思いがする

  (われ等ははや未来より過去の方が多くなった)

   けれどもどうにかまとまりかけると汽車賃が倍になる

   縄ない機械を踏む速度ではとても追いつけない

   私のこの足はすでに東京の土を踏んでいるかもしれない

   ないあげた縄の長さは北海道にも達するであろう


  井伏の唯一の詩集「厄除け詩集」の中に「縄ない機」というしがある。

  まえがきで「故郷の木下夕爾君の『東京行』を読んで故郷の近江卓爾
兄に」とある。

    縄なひ機

 君が縄なひ機を買ったことは

 をととしの君の手紙で知った

 君の操縦する縄なひ機は

 夜汽車の走るやうな音を出し

 君を旅に誘ひ出さうとする

 そのことを去年の君の手紙で知った


 なぜ縄なひを始めたのだらう

 僕は不思議なことに思ってゐた

 けふ木下君のよこした詩を読んで

 漸く君の意中を量り得た

 
 肝は東京見物に来たがってゐる

 旅費を稼がうとして縄をなふが

 旅費がたまりかけると汽車賃があがる

 「縄なひ機械を踏む速度では

  とても物価に追ひつけない・・・・・

  なひあげた縄の長さは

  北海道にも達するだらう・・・・・」

 木下君はさういうふ風に書いてゐる


 僕は近く田舎に出かけるので

 君の縄なひ機も見て来たい

 汽車のやうな音がするのでは

 紅殻塗りの旧式ではないだらうか

 ともかく眼福の栄にあづかりたい  (詩以上)



 さて前述のロバートエップ氏の言葉

  
画像


 「何年か前、私は井伏鱒二の詩に興味を持ち、その翻訳を手紙で井伏
さんにお願いしました。すると井伏さんは返事で『私の詩を訳すくらいなら
夕爾の詩を訳せ』と言われました。『夕爾の詩こそ本物の詩だ。私の詩な
どそれに比べたら。時々書く気紛れのようなものだ。夕爾こそが本物の詩
人だ』・・・・・読めば読むほど夕爾の詩には心を惹かれました。どうもそれ
は私だけではないらしく子どもや知人に聴かせてみても夕爾の詩が一番
いいと言いました。いままで読んだ詩の中でです。夕爾の詩には彼の詩
にはとても普遍性が有り、多くの人に感動を与えるということです。身近な
具体的な風物に自らの心を投影できたことが素晴らしいのです」

ロバート・エップ、Robert Epp氏は特に夕爾の晩年の詩を高く評価して
いる。

 「長い不在という詩が夕爾の絶筆になりました。もうこの時期、夕爾は
病で体が弱り切っていたはずです。しかし夕爾はその状態でこれほどの
感動的な詩を書いた、とても信じられないのです。」

  
        長い不在

   かって熱い心の人々が住んでいた

   風は窓ガラスを光らせて吹いていた

   窓わくはいつでも平和な景をとらえることができた

   雲は輪舞のように手をつないで青空を流れていた

   ああなんという長い不在

   長い長い人間不在

   一九六五年夏

   ねじれた記憶の階段を降りてゆく

   うしなわれたものを求めて

   心の鍵束を打ち鳴らし


 この『長い不在』を書いていヶ月後、木下夕爾は結腸がんでこの世を去った
。享年51歳。1965年8月4日。

  夕爾の死、一年後、1966年、木下夕爾は井伏鱒二と堀口大學との
推薦により、第18回読売文学賞を受賞した。

 その表彰式での井伏鱒二の夕爾を称える言葉

 「えー、非常に純粋な、亡くなったから花を持たせるために言っているの
ではなく、実際にそういう人でした。その頃の戦中から戦後にかけて、これ
ほど純粋な詩を書くという人は本当に珍しいと思います。こういう人は東京
いくらでもいるんだろう、日本にはいくらでもいるんだろうという錯覚を持ち
勝ちでして、相手を粗末にする傾向が合って、後から考えてもったいないこ
とだったと後悔しました・・・・・・」


 ★木山捷平と木下夕爾の詩人としての隔絶した詩人としての資質

 これこそが井伏鱒二の両名への感慨であり、一般読者もそう感じるであろ
う。井伏の木下夕爾への愛着はその文学的素質への感動である。木山捷平
の詩に対しては、特にさしたる感銘はないのは事実である。しかしこれはー
純粋な詩人である木下夕爾と、そうでない木山捷平の格差である。
  

 



  


    


   

  



   

 

月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
井伏鱒二が見た木山捷平、木下夕爾の詩 つぶやき館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる