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zoom RSS 滋養を考える、日本人の食事の歴史、その欠陥

<<   作成日時 : 2018/06/27 11:08   >>

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 私は長年、腎臓を患っっているが、その経験者から「滋養分のある食べ物を十分
食べないと治らない」と云われたことがある。滋養とはでは何か、端的に言えば戦前
、穀物の食事だっった日本で卵とか牛乳、肉類など豊富なタンパクをもつ、またバラ
ンスの取れた食材、容易に当時は手に入りにくかった食材から出た概念だと思える。

  腎臓病患者は食事制限を強いられるものと思われがちである、確かに塩分、刺激
性のあるものはぜひとも避けるべきである。塩分ゼロとも行かないが。買って重度の腎
炎で寝込み、その後復帰された方が「腎臓病の人は滋養分を十分取ることが大切」と
食事制限ばかりに囚われることが誤りだと経験談を話されたのが印象に今でもある。

 滋養とでは何かと考えると辞書的には「体の栄養になるもの」であろう。基本的には
栄養と同義語みたいに使われてきた。ただ滋養となると単に栄養以上のニュアンスが
ある。病気の時、救ってくれる有り難い栄養に富んだ食材、的な意味合いである。
そのためには戦前の栄養的な状態を探らねばならない。

 戦後の「滋養」を考える際には、まずそれまでの日本人の食事を考えねばなるまい。
ただその時代、「滋養」とは普段の食事とは異なるあるイイ見、特別に栄養に富んだ
ものというニュアンスがあった。だから病人には日常食べられない「鶏卵」とか、「滋養
」に富む食べ物を与えていたというわけである。回復力の増進には滋養分ということで
あった。病人への特別な食べ物、というケースにおいて「滋養」という言葉が使われる
ことが多かった。江戸時代から肉を「薬喰い」といったように、庶民がまずめったに入手
できない食材は、病気などの特別な状況で無い限り。食べさせることはなかった。

 基本的に長く日本人の食事は貧しく、穀物中心でおまけにヒエ、アワという貧相を
極めた穀物と云うに値しないものが多かった。死に際に竹筒に入れた米粒を降って
その音を聞かせるのがせいぜいという極度の貧しさであった。

  滋養と病人との関連については、当時、病人お食事とされていたスープ、鶏卵、
牛乳以外にも滋養に富む食材とその調理法を紹介した『病人の食餌 滋養調整』
(阪本隆哉、博文館、明治37年)という本もあった。

 またハヤシライスの発明者として知られる早矢仕事有的(はやしゆうてき)は医者で
もあり、経営している病院の患者のために「滋養」に富む野菜の多く入っているスー
プを作り、健康回復に役立てた。これがハヤシライス創成の動機としている。

  
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  牛乳は滋養食品の代表的なものとみなされ、『蜂印香葡萄酒』は「電気ブラン」で
有名な浅草の神谷バーの創業者が明治期に創ったものであるが、ちらしにおいても
「滋養」の文字が使われている。また400年の歴史を有し、大正時代から本格的に
市販を開始した「養命酒」も「滋養強壮」をうたった商品だった。

 都市生活者の贅沢品であった嗜好飲料は多くが滋養を冠した。「滋養飲料カルピ
ス」、「高速度滋養飲料どりこの」もあった。「どりこの」は講談社から販売されたもの
であり、軍医で医学博士の高橋孝太郎がブドウ糖・アミノ酸を主成分としたもので
あり、虚弱体質や腺病質の人に効果のある希釈栄養剤であった。高橋が個人的に
販売していたものを、講談社社長の息子のわた恒が飲んでみて感心したのがその
きっかけとなった。

 またお菓子も滋養が冠されたものが少なくない。グリコがその箱に「文化的滋養
菓子 一粒三百米突」と表記していた。それは「グリコーゲン」が含まれている、と
いうことが理由でもあった。『現代食糧大観』(昭和4年)には「贅沢品であった菓子は
実は非常に栄養分に富んだ食物であることが分かってきた。人間の体に必要な五
種類の滋養を補うにはお菓子が一番良い」という記述がある。

  
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  穀物が圧倒的に多く、動物性食材の少なすぎた日本人の食事


 このように食事以外から摂取する食品をあえて「滋養食品」と称して宣伝販売が
盛んに行われたのは、逆に言えば日本人の食事に「滋養」を思わせる要素が全く
欠落か不足していたからである。現代のような「大食い」女性たれんとみたいな、と
もかく飽食の時代までは、日本人が普段、食べていた食事は糖質ばかり、というか
糖質にも値しない粗末な穀物が支配的であった。貧しいという一言に尽きた日本人
だった。

 アミノ酸も不十分、動物食が全くかけていた為必須アミノ酸も超乏しく、ビタミン、
ミネラル、また必須脂肪酸も全く不足していたかゼロだっった。

 明治12年、1879年に農商務省が初めて栄養調査を行ったが、食事の53%が米
、27%が麦、合わせて90%がコメと麦であっった。のこり20%も14%が雑穀類、5.2
%が蔬菜、0.8%が木の実や昆布で結局、食事の94%は雑穀を含めた穀類であっ
た。

 明治36年、1903年の『職工事情』では普通は米3割、麦7割で基本は麦飯であり。
副食は味噌汁、たくあんん、大根の煮付けなどに過ぎない。野菜の煮物は数日に
一回、メザシが月に一回程度、あまりにも日本食礼賛以前の貧しい貧しい日本人
の食事がそこにあった。全くこれでは栄養は摂れる見込みはない、だから滋養を
別の食材から、という発想の宣伝であった。

 この根本は国民の所得のあまりの低さ、江戸時代までの米麦の自給自足と
いう生活様式が徹底していたこと、加工食品も動物性食品も接種の機会がほと
んどなかった。

 明治以降、農村的自給自足から逸脱した都市経済の発達かいくらか副食など
に質的向上が認められようと、昭和7年、1932年でさえカロリーの80%は穀物か
らであり、動物性タンパクなどは2%程度であった。戦争が拡大し、国家が戦争
貧乏に襲われ、挙げ句にB29の無差別空襲の時代はまさに縄文時代に逆戻り
でさえあった。芋の根を齧って食べたというくらいである。

 終戦後からの飢餓状態、縄文時代以前に逆戻りの食事


  戦争による損失、貴重な労働力は根こそぎ動員で無益な戦争に無為に
注ぎ込まれ、莫大な戦費、空襲による焦土化で日本は縄文時代以前の半ば
原始時代に逆戻りしてしまった。

 極度の食料不足が国民を襲った。空襲で親を失った子供たちは都会に戻って
も焼け野原、家もなければ親もいない。数知れぬ戦争孤児、だがそんな子供達
も感傷に浸る暇などなく、生きるのに必死であった。現実、食料品は消えうせて
しまった。絶対的飢餓である。

 更に結核が国民病であり続けていた。全国に結核の療養施設で6万床もあった
のである。在宅結核患者は200万人を超えていた。1947年時点で。とにかく生きる
ことだけが至上命令だった。

 だが、その中から体力回復、健康回復のための「滋養」に富む食事、食材が一段
と求められた。まだまだ子供達は今では見ることもない洟垂れ小僧が多く栄養状態
は悪かった。子供達は不衛生、低栄養から来る感染性疾患が蔓延した。そのため
には何よりも生活の改善、栄養状態の改善が求められた。

 1946年厚生省に栄養課が設置され、栄養士法が制定された。いかにして効率的
に有効な栄養を摂取できるか、同じ食材からでもより栄養を取る方法はないのか、
切実な問題であった。行政施策でも栄養改善のコンセプトは「栄養素の確保」で統一
された。1950年には「タンパク質」を摂りましょう運動、「ビタミンを摂ろう」運動が開始
された。それらのアピールはいつの間にか「栄養をとにかく摂れ」と「カロリー0至上
主義」が定着の要因となった。穀物偏重が排斥され、「脂肪をもっと摂りましょう」が
「食生活改善」の基本とさえなった。これが後日、弊害を生んだ。

 「滋養」のあるものは栄養素摂取の概念となり、戦前にはあまり言われなかった
ビタミン類が大きく表に出てきた。例えばカワイ肝油は子供達の健康、体力向上の
ため利益を度外視してまで安価で学校向け肝油を販売した。
 

 

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