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zoom RSS 巌窟ホテル(埼玉県)と堺利彦の訪問(1927年)

<<   作成日時 : 2018/05/26 21:47   >>

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 知る人ぞ知る埼玉県のホテルではない「岩窟ホテル」そのウィキの説明の概略は
岩窟ホテル(がんくつホテル)とは、埼玉県比企郡吉見町にある切り立った崖に掘られた人工の洞窟である[1][2]。正式名称は「巌窟ホテル・高壮館」。かつては、近隣の吉見百穴とともに観光名所になっていたが、現在は閉鎖されている[1][2]
明治時代後期から大正時代にかけて、農夫・高橋峰吉の手によって掘られたもので、「巌窟掘ってる」が訛って「岩窟ホテル」と呼ばれるようになった[1][2][3]。そのため、もともとホテルとして建設されたわけではないが、新聞報道ではホテルとして建設中であると報じられていた[2]。

峰吉は巌窟ホテルを建設する理由について「何等功利上の目的はなく、唯純粋な芸術的な創造慾の満足と、建築の最も合理的にして完全なる範を永く後世の人士に垂れんが為」と述べている


 というわけで、まことに異色な建築物!である。現在は台風被害の崩落で閉鎖中で再開の
見込みはない。

 堺利彦に1927年、昭和3年7月「改造社」から刊行した『当なし行脚』にその訪問記がある。

 その序文に

  「小生は稍々(やや)上手に文章を書き得るものなり、いづれ文を売って口を糊するに亦
何の憚る所あらん」

 という具合の切り出した口上で、ちょうど「売文社」を開業した堺らしく、いたって簡潔であ
る。

 「昭和二年五月末から十月末までの間、私は毎月一回、数日間の小旅行をやり、その旅
行記『当なし行脚』を雑誌『中央公論』に載せて貰い、その稿料を以て半年間の生活費に
充てた。今又、その旅行記を取りまとめ、・・・・それを改造社から発行して貰う事にしたのも、
矢張り其の印税を以て生活費に充てることが主要な目的である」

 「堺利彦全集第6巻(昭和8年10月中央公論社)の年譜によると「昭和二年(58歳)」の部分は
「五月末、利根の水郷、野田、銚子」、「七月、埼玉県吉見の百穴、秩父」、「八月、北海道に
旅行し、アイヌ部落を訪ふ」、などとある。

 で「巌窟ホテル」は七月の旅行先、吉見の百穴のすぐ近くにあった。

 実際は二百以上はあるという「百穴」を代金五銭を支払って見学し、近くの街道沿いにあ
る「巌窟ホテル」に向かった。

「途中で買って来た十銭の入場券を出した」ら、番人が板切れの上に立てた蝋燭の火を
とぼして持たせる。

 「狭い廊下の様なものが突き当たって右に折れている。それを探り探り伝って行くと
、今度は明るい広い処に出た。ここは玄関のホールらしい、表から見たホテルの正面
の内面らしい」

 元に戻ると番人が絵葉書を一枚くれた、写真の脇には名前と「安政五年十二月生、大正
十四年八月一日沒、行年六十七歳、二十有一年」の文字。

 ーーーーーー

 堺利彦はさらに詳しい印刷物を番人からもらった。

 それによれば堀るのを始めたのは「明治37年6月の天赦日」。兄が河川の護岸工事の
岩石を調達するために、岸壁を削るうちに、険しい断崖絶壁が出来たのを利用して、蚕
種貯蔵庫と醸造用冷蔵庫を作ろうとしたのが始まりであった。

 その後、「実業之日本」、「建築世界」、などで紹介されて見学者が増えて、高橋峰吉は
「岩窟彫ってる」から「ホテル」に諧謔的に称して「建築学に鉱物学、化学に物理にあるい
は哲学に進化論」をじゅんじゅんと説いた。そして「近き将来において、人類は自らにより
て築かれし科学の暴威に苦しむ時きたらん」となにか核シェルターさえ想定したような、
「巌窟ホテル」の必要性を強調したという。

 

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