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zoom RSS 「みなしごハッチ」の真実、九里一平氏(タツノコプロ)の感慨

<<   作成日時 : 2018/05/24 10:21   >>

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あの「タツノコプロ」吉田さん兄弟の三男の九里一平こと吉田豊治さん、印象に
残るのは昭和37年だったか、少年サンデーに連載された加藤隼戦闘隊を部隊に
した「大空のちかい」あのときでさえ、1940年生まれだから22歳でしかなかったわけ
だがそれは見事なものだった。主人公の名前も九里一平だったかな。その後は長男
の吉田竜夫、吉田健二氏らとタツノコプロを運営、アニメで数々の名作を生み出した。
その中にミツバチの子供を主人公とした「みなしごハッチ」がある。2002年に書かれた
その「みなしごハッチ」への九里一平氏の感慨を綴った文章、私が想うに虫たち、昆虫
たちが子供の心に占める重みは現代では考えられないほど昔はあった。今みたいに
遊ぶものなどない、あるのは自然だけであった。そこに図鑑の昆虫たちがそのままい
た時代だ。昆虫たちを心の友、遊び相手にしたかっての子どもたち、現在は虫といえ
ば害虫駆除くらいしか子供たちは思い浮かばないだろう、だが昔は自然があった。
それを感じさせる九里一平氏の文章である。

 
  「みなしごハッチ」といっても、今の十代、二十代の人たちにとっては、それは何だ
、ということになるであろうが、しかし、それ以上の世代の多くの人々の幼き記憶の中
に、このアニメ・ドラマの影や形が残り火のような軟らかさで温もっていることは確かな
ようである。

 先日もある五十代のお母さんが「みなしごハッチ」を涙しながら見ていたと、話してい
るのを耳にして、あのドラマはこの人びとに今も残像を留めているのだと実感した。

 振り返りみれば、この昆虫アニメ・ドラマの誕生には、制作スタッフの並々ならぬ苦労
と努力もさることながら、当時の世相の中で生まれるべくして生まれたドラマであったと
いうことを、いまも強く感じる。

 私事で恐縮だが、私は京都生まれ、一歳で母は病死。翌年に五歳の姉が病死。父
は私が三歳のときに徴兵で満州にと渡った。残された家族は、祖母と叔母と私たちの
三人兄弟だけ。幼い末っ子の私は、親子離別の悲しみもなく、家の近くの寺の大きな
境内で日がな一日昆虫を追い回して遊んだものだった。その頃の私は、昆虫を友とし、
昆虫とともに生きていたといって何ら過言ではない。

 かくして成長した私は、身よりもない生まれ故郷の京都を離れ、すでに上京していた
兄のもとに身を寄せ、もともと絵を描くことが好きだった私たち三人は、やがてアニメ・
ドラマの道に入っていった。

 そして三人で立ち上げたアニメ・プロダクションだったが、仕事はようやく軌道に乗り
始めたのが「マッハGOGOGO」という作品の頃からであった。さらに私たちは「みなしご
ハッチ」の企画草案に全力を傾けていた。

 当時の日本社会は、著しい高度成長で世界第二位の経済大国に成長しつつあった。
工業生産は急速に拡大、沿岸部は臨海コンビナートで埋め尽くされていった。他方公害
問題は深刻化していた。人びとが物質的な豊かさのみ求め、経済成長に歓喜するのみ
で、人の命、人の心の大切さを忘れていったように思われる。

 こうしたとき、われわれ制作スタッフは、世の中はこれでいいのだろうか、人間として
何かを失いつつある、何かが欠けている、という危機感をいだき始めた。人びとが、社
会が失いつつあるものは、人への思いやり、親兄弟の愛、国境を超えた人びとへの慈
しみの心ではないだろうか、と。

 ー人間疎外が拡大しつつある世の中で、なまじ大人相手に夢を語るより、未来が手
のうちにある子どもたちに、アニメ・ドラマを通して夢と愛を育んでいこう、ー
 
 そう考えた時、私はかの過ぎし幼い日々の小さな昆虫たちに頬ずりし、彼らの小さな
息吹が肌を通して伝わった来たことが昨日のように思い出された。

 そして、われわれ制作スタッフが考え抜き、昆虫の中でこれだと決めたのが人間社会
とあまりに似た形態、生態を持つミツバチであった。子どもたちの夢を語るには、身寄り
のない男の子のハチを、愛と冒険のたびに出発させよう。その中で、生きるものへの労
りと愛を語ろう、と。

 当時のTVアニメでも前例の少ない昆虫物語を登場させるのは、イチかバチかであっ
た。だが幸いにも、昭和45年、1970年4月、フジテレビ系の全国ネットで放送が決定した
。制作スタッフの苦労がやっと実ったのであった。

 かくしてTVアニメ「みなしごハッチ」はスタートした。しかし視聴率がどれほどとれる
かは疑心暗鬼であった。見当すらつかなかった。だが放送開始後、予想に反してと云う
べきか、子供さんやお母さんたちの間で人気が急上昇していったのである。

 想うに、これはひとりぼっちのハッチが悩み、苦しみ、悲しみながら希望を失うことなく
旅を続けるその姿が、まるでわがことのように人々の心に響き、同情と共感と感動を
読んだのではないかと思われる。

 このドラマの視聴率アップと、そのヒューマニズムあふれる内容により、「みなしご
ハッチ」は昭和47年、日本放送作家協会優秀番組性を獲得したのである。私たち制作
スタッフの昼夜を分かたぬ作業特進がやっと社会に評価されたという喜びであった。

 今朝も庭先に小さな羽先を震わせて、花から花へと飛ぶミツバチを見かけた。私は
「ハッチ、お前は一匹できたのかい、ママやマーヤはいま幸せかい」と思わず話しかけ
たのである。ハッチを通して懐かしさと幸せを感じつつ、私は静かに花の道を通り過ぎ
た。

                                           2002年6月

 

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