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zoom RSS 加能作次郎(作家)の「世の中へ」に見る大正期の日本

<<   作成日時 : 2018/05/15 10:46   >>

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加能作次郎の「世の中へ」は私は中央公論日本文学全集の三巻かある「名作集」
の中の一篇として最初読んだ。石川県の田舎から京都に丁稚奉公に出て、「どこの
出か?」と聞かれた時、田舎者と思われたくないので「金沢です」と答えた、その部分
が妙に印象に残ったものだ。講談社文芸文庫でその後出て、今なら青空文庫で読め
る。講談社文芸文庫は加能作次郎作品集だから、貴重である。姉との面会も印象に
残った。

 そのころ、20世紀直前、明治31年、1898年に「世の中へ」のストーリーは始まる。石
川県羽咋郡の田舎から京都に丁稚奉公にでた。1885年生まれだから小学校をでた
だけ、まだ学校に行かないことが当たり前だった日本である。なお加納はその後早稲
田を卒業、博文館に入社し、主筆となった。

 1885年、明治18年、能登半島西岸の寒漁村に生まれた漁師の子の加能作次郎。
子供時代から漁師の手伝いをやって高等小学校を出た。だが当時の風潮は、漁師
の子は漁師になる。半ば以上に常識だった。だが向学心に満ちて進学を諦めきれな
い加能作次郎、ここで一代奮起し、この漁村を飛び出し、京都の叔父を頼って出奔し
た。親が別に丁稚奉公に行け、と命じたからではない。だが叔父のもとでは不本意に
も丁稚奉公をやらされる羽目となった。ここで一旦は進学の希望は潰え去った。

 「世の中へ」はその不如意な作次郎の少年時代の彷徨生活が記されている。わびし
くもあり、苦しい辛酸であった。

 この読売新聞に連載された「世の中へ」は全然、立身出世の話ではないが、大いに
世間の共感を集めた。同情でもあったかもしれない。極端に強い自我を、持っている
わけではないが過去の培った経験でこの厳しい世の中をしぶとく生き抜いてきただ
けの温かい思いやりの同情があった。加能作次郎の描いた生活はやはり近代以前と
もいえる時代である。その後、近代化の波に流されていく民衆の姿であった。

 この筆致にたいし片岡良一の「解放を求める立場からの現実との対決という意識は
見られずない」と低い評価、作品としての評価はできないというのもやや的外れでは
ないか。現状を打破しての「解放を求める立場」などさいしょからこの「世の中」にはな
いだろう。

 丁稚には読書さえ許されなかった。

 「私は間もなく退屈と窮屈に悩まされだした。店は大きく、そのレ場所はこの上もなく
良かったけれど、元来売薬に化粧品wの売っているのだから、そう客は有り様はなか
った。寧ろ暇な方だった。けれども私は一歩も店を離れることは出来なかった。」

  ある日作次郎少年は近所の本屋で少年雑誌をかってこっそり読んでいると、叔父
に見つかった、「その本はなんや!」、「誰がそんなもん読め言うた!お客さん来なは
ったらどうするんや!」と厳しく叱責された。僅かな小遣い銭まで取り上げられた。

 陰惨で苦しい生活もさらりと書いてあまり暗さもない。重苦しくもない。それがこの「
世の中へ」が多くの人を惹き付けた要因である。

 大正時代、その後博文館主筆ともなった加能作次郎、押しも押されぬ文学者となっ
た。小説家になるまでの人生を波乱の人生をありのままに描いている。立身出世し、
成功者となった加能作次郎は同時に描き得なかった世界を持っていた。漁師であり
、丁稚であり、郷里の海を描いた小説は彼でなくては書き得なかった、だがなお書か
なかったものはあるはずである。

 それにしても人生を淡々と観照する落ち着いた描写は、加能作次郎が早くから
「ホトトギス」に投稿し、写生文を会得していたからともいわれるが、確かにそうで
あると思われる。

 

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