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zoom RSS 横溝亮一氏(正史氏の長男)の旧制矢掛中学時代

<<   作成日時 : 2018/04/10 22:52   >>

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横溝亮一氏が亡くなられてもう何年だろうか、・・・・・あの横溝作品にはそれ
こそ数え切れない方々が深い愛着を持たれていると思う。その作品の大きな
要素が(現在は倉敷市の)真備町岡田村字桜に疎開していたその時代にある
ことは疑いを持たない。東京大空襲が下町にあり、それをきかっけに横溝正史
一家は疎開を決意した。横溝正史の父親は船穂町の出身、で母親は和気閑谷
、亮一氏は母の里の方に遥かに親しみがあったそうだ。

 正史のルーツである船穂町から北方にさほど遠からぬ吉備郡真備町の岡田
村、そこに空き家があるということだったがその修繕に一ヶ月ほどかかるため、
まず最初は現在の総社の知人宅に居留、いちおうの人が住めるほどにリフォー
ムできて家財道具などを大八車に載せてそれを引っ張って一家は岡田村字桜
に、だがここで亮一氏の学校問題が生じた。当然だが。東京では府立十中(現在
の都立西高校)に在学していたが、さて、このあたりとなると、県立の旧制中学は
限られる。源氏アの広域の合併された倉敷市の範囲でさえ、それがない。岡山
市内?でも遠い、下宿しないと、空襲の危険、となると矢掛中学しかないことに
なった。十数キロ近い道程を自転車で通学となった。


  ー亮一さんは当時中学生でしたが、どんな学生生活でしたか

 横溝:東京で府立十中、今でいう都立西高校に通ってました。そこから岡山
一中に転校する予定で手続きに入ったんですが、住居の岡田村から岡山市ま
では遠すぎて学区が違ってダメだったんです。倉敷もダメ(註:県立中学がない
から)そこで岡田村から西に15キロほど離れた矢掛という街にある矢掛中学に
行くことしか認められなかったんです。それで、自転車通学で通いました。1時間
以上かかりました。

 ー15kmは大変でしたね。

 横溝:冬なんて、川べりの道を走るものでとても寒い。真向かいから北西の風が
吹き付けてきて、もうつらくてつらくて、毎日、遅刻してました。遅れて教室に入って
学帽を脱ぐと、頭からホヤホヤ湯気が上がってました。みんなそれをみて「横溝の
たこ坊主」と笑ってました。

 戦争も終わって、野球部を作ろうと私が先頭に立って運動したことがあります。
ところが校長がどうしても認めないんです。バスケ部があり、テニス部もあるのに
、なんで野球部はダメなんだと、相当喧嘩もしたんですが、校庭が狭くて危険とい
う理由で認められませんでした。それではというので、あくまで自主的なクラブ活動
としてやることになったんです。放課後練習して、近くの商業学校とか、中学校とか
、町の大人たちと試合をやりました、だから家に帰るのは真っ暗になってからでした


  ー中学校の世界で、疎開してきた者と地元の人間との間でなにか区別はありま
したか。

 横溝:別に喧嘩なんてなかったです。融和して楽しくやってました。でもなんか
集まる時、どうしても疎開生徒だけで集まることはありました。地元のやつは野球
のことも知らないんです、ファウルをストライクにとるとか、説明しても分かってもら
えない。疎開してきたやつはみんな知ってるのに。だから野球のメンバーはほとん
ど疎開生でした。

 ー文化格差はありましたか。当時の都市部と地方との。

 横溝:文化格差はありました。矢掛中学の生徒は、岡山県では矢掛の山猿と言
われてました。倉敷や岡山を歩いていると、不良学生が、学校の記章を見て「お前
、矢掛の山猿か」と絡んでくるんです。こっしも「そうだ、何で悪い」と喧嘩を買いま
す。お互いに殺伐として雰囲気になり、最後はナイフを出すというところまでいきまし
た。中学5年というとまだ16歳くらいでしたから、嫌な時代でした。

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