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zoom RSS 女流俳句の苦難の歴史、杉田久女、竹下しづの女、橋本多佳子など

<<   作成日時 : 2018/04/06 17:32   >>

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 女性による俳句、女流俳句については岩波新書で「女性俳句の世界」がすでに
出版されている。実のところ、女性が俳句を行うことについては日本においてそれ
は茨の道であったといえる。

  わずか十七文字の断言の文学形態である俳句は女性には不向きと云われた
時代があった。十七文字に自己の感情を織り込むこと、が女性に不向きとされた
のである。女性は感情が激しい、喩えの表現で油紙に火をつけた如く自己を語る
、語りたがるのは女性とされた。特異な詩型である俳句をあえて女性が行うことも
ない、とされたのである。女性が句会に参加すること自体、顰蹙をかう風潮があっ
た。しょせんは俳句の世界も日本社会の差別体質と閉塞から逃れるすべはなか
ったのである。

 女性が俳句の世界に大きく関わるようになったのは1913年、大正2年からだと
云われている。高浜虚子が俳句の世界に戻り、雑誌『ホトトギス』を俳句中心の
雑誌にこれも戻し、その中で「つゝじ十句集」、「台所雑詠」という女性の俳句投稿
を勧めるコーナーを作った。「台所俳句」はいかにも俗な些末な事象を意味する、
皮肉っぽい意味でも使われもするが、ともかく女性の生活の身近にあることをテー
マとすることで投稿できる場となりえたのは事実。

 高浜虚子の次女の立子は父親のすすめもあり、日本初の女性の俳句主宰者と
なっている。「父がつけしわが名立子や月を仰ぐ」、少なくとも俳句の世界で生きる
というなら当時の最高の環境に恵まれた女性であった。すでに恵まれて手にした
物が大きいから野心を持つこともなかった。頑張らなかった、頑張らなくてよかった
例外的な女性であった。

 高浜立子の対極にいそうなのが、天才とも言われながら、生前は句集も出さず
、『ホトトギス』からの同人除名処分や、さらにはその狂死説を主張の高浜虚子、
松本清張らによって「久女伝説」が作られた。といってそれが不当なものであるこ
とは、坂本宮尾『杉田久女』によってほぼ証明されている。

 朝顔や濁り初めたる市の空

 もし久女のなかに忘れがたい句を持つ読者なら、その本を読み終わってどう感
じるだろうか。

 虚子にとって久女のその才能の突出は想定していた「台所俳句」の埒を超えた
ものであった。更に意欲的に自選句集の発行は虚子の権威を脅かすのに十分で
あった。この緊迫した状況を久女は理解できなかった。虚子との関係修復もなしえ
ず、さりとて虚子を見限って独立の勇気もない。その本領を示す句は「足袋つぐや
ノラともならず教師妻」、「風に落つ楊貴妃桜房のまま」、などスケールの大きな時
空で句を捉える力であった。

 他方、竹下しづのは虚子の求心力に吸い込まれなかった。

 短夜や乳ぜり泣く児をすてちまをか

 日を追わぬ大向日葵となりにけり

 著名、実力派俳人がひしめく大正時代の『ホトトギス』の「雑詠欄」にはじめて登
場した女流俳人である。趣味教育などに収まりきらない迫力がある。家庭俳句と
も母性俳句ともいわれる中村汀女などにくらべたら、まさに驚愕の母性である。
万葉仮名を使って生々しさを回避する方法も会得している。また俳句に使うなど
とは考えられなかった「二重人格」という言葉を

 「二重人格に肖す吾がふと蚊帳に居し」と作品化している。、

 ここまえ表現者として突き止めると先駆者的な苦悩が生じる。俳句から離れた時
期もあった。さらに夫の急逝で三男二女を女手一つで育てることになった。昭和前
半はまだ職業婦人への理解も低かった。でも男に負けられない。生活者としても

 「汗臭き鈍の男の群に伍す」

 との頑張りであった。そこまでいうか、との追求が


 「緑陰や矢を獲ては鳴る白き的」

 また指導者として中村草田男とともに学生俳句連盟機関誌「成層圏」を発行し
、戦後俳句を展開することになる金子兜太、香西照雄、沢木欣一、原子公平など
の若手を応援した。

 しづの女を含め、かっての女流俳人には夫やあるいは子供と死別したというケ
ースが多い。当時の衛生環境では死亡率は高かった。更に戦争の時代でもあっ
た。命を落としやすい条件が揃っていた。ひとり身ゆえに俳句に打ち込めるという
側面はあった。ソレを拠り所にするしかなかったともいえる。

 さて橋下多佳子、

 いなびかり北よりすれば北を見る

 乳母車夏の怒涛によこむきに

  
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 久女から俳句の指導を受け、その後、山口誓子に師事し、俳壇のスターともなっ
た橋本多佳子、その本領は夫の死後から発揮された。その句会仲間の豪華さは
驚きである。『京大俳句』で新興俳句を展開し『天狼』創刊の立役者の平畑静塔、
西東三鬼の二人と奈良「日吉館」に泊まり込んで句会をした。ひとり身ならばこそ
である。橋本多佳子は「雪はげし抱かれて息のつまりしこと」など久女には見られ
ない大胆な表現があった。女心を前面に押し出し、注目を浴びた。時代の制約を
逆手に取った。山口誓子に学んだ空間の把握、韻律の強さで「月一輪凍湖一輪光
合ふ」の見得を切る姿は様になっている。


  藤木清子

 「昭和10年、日野草域の『旗艦』創刊に際して俳句を投稿し新興俳句、最初の
女性」といわれるが「生死不明」、「昭和15年10月号の三句を最後に俳句から身を
引く、その後は不明」と『女流俳句集成』にある。だが翌年彼女の作品集を収録す
る『現代俳句集第二巻』が発行された。同書は治安維持法により『京大俳句』が
同人の謙虚、拘束という弾圧を受けたため廃刊となった翌年でありながら、新興
俳句中心の編集であった。清子は作品集の序文に「私は年齢的に現代俳句作家
の要件には欠けておりますことは勿論ですが永い因襲を抜けて現代俳句精神の
片鱗でもつかみたいと人一倍苦労しました」、また「寡婦」という境遇も述べている
。その日付は昭和16年4月、この時点までは消息が知られていた。


  三橋鷹女


  
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 昼山火へ一本の羽毛が走る

 断じて引かない強さが彼女の持ち味である。橋本多佳子の作品と同様に基本
的には既成の価値観の延長上とは言えるが、「詩に痩せて二月渚をゆく私」に
見られる自己愛も半端ない。さらに「白露や死んでゆく日も帯締めて」や句集の
序文の「一句書くことは、一片の鱗の剥奪である」という誇り高さにも圧倒される
。この文学者としてのプライドが鷹女の眼を富沢赤黄男、永田耕衣に向かわせた
。強さの本当の面目はここからはじまる、定評のある「情念俳句」の自作に安住
せず、言語空間の探求者を志した。高柳重信が鷹女の俳句を自身の俳句の母だ
という理由はここにある。大半の女性たちの作品が目に見える事物や境涯という
現実を根拠に季語の伝達性で成立していたのに対し、鷹女は書くことによって見
出される新たな意味を求め、俳壇の時流と無関係に自己のぷらいどにかけて作
品世界を作った最初の人物であろう。


   


                  参考文献  女流俳人の作った場所  水野真由美

 

 

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