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zoom RSS 裕次郎賛歌 、・・・・・・木村威夫氏の追悼

<<   作成日時 : 2017/10/02 06:37   >>

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映画舞台の美術監督であり、晩年は自ら映画監督も行われた木村威夫氏
により石原裕次郎追悼文(彷書月刊、1987年10月25日号掲載である。

 一時代の流行を創った石原裕次郎氏が亡くなった。そのお通夜には仕事の
都合でどうしても行けず、青山斎場での告別式でお焼香をさせていただいた。
万を算する参列者の延々と連なる行列に今更ながら彼の人気の深さを感じた


 亡くなってから約一ヶ月後、にっかつ撮影書では三棟のステージに想い出な
つかしい昔の作品のセットを作り、その場所での追憶パーティーとなった。会す
る者は,千人以上で、撮影所は来会者の渦で埋まった。

 かって昔の私のデザイン「陽のあたる坂道」のクラブの一隅ができていたが、
昔の事ゆえその図面すらなく、スクラップブックに貼られていた一、ニ枚の写真
を参考に再建されたのであった。

 今から見れば時代遅れの古めかしいその柱の影に座って、壇上に飾られた
等身大の裕次郎氏の写真を見つめた。

 「献盃」の声が聞こえて私はビールのコップを捧げて飲み干したが、彼の写真
の前には盃もなく、この一方的な仕草に我を忘れて立ち上がり、いきなり渡哲也
氏のテーブルにあったビールのコップを取り上げて「これを捧げます」と言ったら
、彼は不思議な顔をしながら頷いた。私は段を駆け上ると、そのコップを写真の
前に献じた。追悼の言葉を述べている人に対して少々の非礼を感じたが、その
時の私は、そうせずにはいられない気がしたのである。奇異な私のその姿にい
くつかのフラッシュの光芒が眼前をよぎった。

 私がこの俳優と初めて仕事をしたのは、「乳母車」(1956年11月封切り)であっ
た。その時の彼はまだ青年と呼ぶにも、また余りに若すぎる容姿であった。

 好きなように動き回る演技以前のその動作が、なんともいえない新鮮さと映
り、「太陽族」などという蔑視の言葉から浄化されたような瑞々しい表現となった


 私は彼の主演の映画を一年のうちに一本か二本てがけたが、数えてみると
19本もの多きに達する。映画美術の仕事というのは準備のためにその撮影現
場にいることは少ない。次から次へと移行するゆえ、俳優諸氏と仕事場で語る
ことは少ない。

 だがスペインロケで何かと語り、その思い出のきれぎれに彼の姿、人間が浮
かび上がる。

人々はみな、彼のことを「裕ちゃん」と呼ぶ。私は一度もそのように呼んだ事は
かった。それは年齢が離れていることもあったが、その名が本名であることに
どこか抵抗を感じていたのかもしれない。それゆえ「石原さん」と呼ぶと彼は改
まったような表情で受け答えするのであった。

 スペインのロケでは彼はいつもビールを飲んでいた。おいしいワインの国で
ありながら、ビールを飲んでいるところが彼らしく、ホテルの食堂では輸入の
ドイツビールを飲んでいた。

 この国ではワインは水のように安いがウィスキーは高価のものであり、ビー
ルも贅沢な飲み物であった。
 
 私はよく安食堂のワインを立ち飲みしながら、ハムや魚を手で摘んでほろ酔
いになると、裏街の古書店に入った。

 昔のスペインの風景を克明に描いた銅版画や、古い楽譜などが信じられない
安さで買うことが出来、それを自慢気に語ると、裕次郎氏は「案内してよ」と言っ
たが、取り巻きとビールを飲んでいるため、その折もなく古書店案内は立ち消え
となってしまった。

 いつであったか、もう20年ほど前,成城の彼の家に招待されて北原三枝夫人
の手料理で樽酒を御馳走になったことがある。その壁面には素晴らしい額が
掛かっていた。白紙に黒一色の線画の女の顔である。

 「どなたの・・・・?」という私の問いに、彼は照れくさそうの「兄貴のいたずら描
き」だと言った。私は信じられないほど驚き、「良い絵だ」と言ったら彼は少々歯
並びの悪い奥歯を見せて笑った。

 この日であったか、別の日であったか、彼が自分の部屋の棚に飾っている白
磁の壺を見せて、「これはどうでしょう」とその価値を問うような眼差しで私をみつ
めた。その時、わたしは決まり文句とは思いながら、「自分の目を信じることが大
事、良いと思えばそれが何よりのたのしみ」と妙に達観したように言った。彼は「
そうだ」と素直に頷いた。

 庭のプールには水が満々と張られて月光が白樺の葉越に散って揺れた。白樺
の樹を信州から移植した時の、その方法を克明に語ってくれた。そして、そよぐ
その葉をみつめながら、「好きなんだ、この樹」と言った。

 石原プロモーション設立の20周年記念には『石原裕次郎ーそしてその仲間』と
いう豪華本が配られたが、その内容の大半は写真であり、昔懐かしい映画の
一コマから、スナップ写真、記念撮影、あるいは原色版のポスター集、レコード
のジャケットなど計233頁、それに約30頁の全フィルムグラフィーと、全レコード
・リストが加えられていた。

 扉を開けると墨書きで、わたしの名がきちんと記され、石原裕次郎の文字が
伸び伸びと記してあった。野放図に見えるが、彼の神経は細かい。そしれ礼儀
をわきまえている人であった。

 昔も、やはり一席飲んでいるとき、箸袋に「サインして」とペンを添えたら、怪訝
な面持ちでサインしてくれたが、そのような時も一瞬ためらい、そしてじっと見つ
めると、すぐすらすら記したが、その筆先を見つめる瞬間には、彼の正しさのよう
なものが感じられた。

 昭和56年の秋であったか、百日以上の病床から立ち直って、写真入りの挨拶
状が届いた。最後の行に、「もういちどいただいた命ですから大切にして、人生
を有意義に生きたいと思っております」と記されていた。その言葉の裏側には
、病魔との対決の凄まじさが潜んでいた。

 それから6年、彼はじっと生命力を噛み締めていたに違いない。

 52歳は空しい、・・・・・・。

   
   
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