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zoom RSS 第二次大本教事件と治安維持法による宗教弾圧

<<   作成日時 : 2017/03/29 20:41   >>

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歴史は風化しやすい、若い世代は右傾化しており、戦前の大本への
特高、警察による大弾圧を「大本教がカルト宗教だったから当然」という
誤った知識を植え付けられているほどに無知な状態が根付いているとも
いえる。大本だけではなく数知れぬ多くの宗教団体が治安維持法、不敬
罪などを口実に警察の呵責ない死の弾圧を被った近代天皇制のファシ
ズムが忘れ去れかねない。若い世代に全く知らない明治以降の弾圧の
ファシズムの地獄を、何か愛国の倒錯でもあるかのように懐かしむ!
誤った風潮が扇動する右翼たちに踊らされているのは亡国の危機であ
る。

 大本自身を真に理解するためには、必ず読んでおくべきは「大地の母」
出口和明(王仁三郎の孫)である。出口直、出口王仁三郎の出生から
大本教の創始、草創期までを詳細に含蓄を込めて書いている。大本事
件については書かれていないが。


 大本教への第二次弾圧は近代宗教弾圧の嵐の幕開けとなった。政府
は1940年4月、宗教のさらなる全面的統制と戦争への総動員、戦争協力
体制のために宗教団体法を施行した。治安維持法下の宗教弾圧事件を
列挙すると、

 大本教(皇道大本) 出口王仁三郎 1935年12月

 神政龍神会  矢野祐太郎      1936年3月

 天津教     竹内磨         1936年4月

 ひとのみち  御木徳一        1936年9月

 新興仏教青年同盟  妹尾義郎   1937年12月

 天理本道   大西愛治郎      1938年11月

 日本灯台社  明石順三       1939年6月

 《1940年4月、宗教団体法、1941年3月、新治安維持法》

 御国教  楠本幸覚          1941年7月

 如来教  加藤大与          1941年9月

 大自然天地日之大神教団  小島ナカ   1941年9月

 耶蘇基督之新約教会  野中一魯男  1941年9月

 大日教  杉本金次郎         1942年3月

 日本聖教会  車田秋次        1942年6月

 きよめ教会  尾崎喬一         1942年6月

 本門仏立講勝川本部  橋本日種   1942年6月

 創価教育学会  牧口常三郎      1943年7月

 第七日基督再臨団  小倉指郎    1943年9月 

 
 なお神政龍神会、天津教、ひとのみち教団は不敬罪でのみの起訴
、他はすべて治安維持法と不敬罪之両方で起訴。

 ともかく大本教(皇道大本)への弾圧の開始が狂乱の宗教弾圧の
引き金となったことは否めない。その弾圧の規模と拷問の激しさ、な
どは宗教弾圧の中でも大本教への場合があまりに際立っている。

 治安維持法は、日中戦争の時代、1941年(昭和16年)3月、第二次
近衛内閣によって三度目の改悪が施された。新たな治安維持法は、
牙をむき出しにした近代天皇制・国家神道ファシズムの弾圧刑法と
して、全三章(罪・刑事手続・予防拘禁等)の65か条に拡大されていた
。ここにおいて「国体変革」下の刑罰が一層強化され、支援結社、準備
結社、集団の処罰、検事への強制捜査権の付与、弁護士活動の制限
、一審判決への控訴の禁止、保安処分としての予防拘禁制度などが
新たに規定された。さらに「類似宗教団体等」に関する処罰規定の新
設もあった。

 ★「宗教団体法」の提出の文部大臣・荒木貞夫の貴族院における
提案説明。

 「惟神の道に違うような宗教は日本では存在を許されない」と強調
した。

 第76帝国議会  司法大臣 柳川平助

 治安維持法改正案の提案説明、この法案により

 「国体を擁護し、大義を匡(ただ)し、以って高度国防国家体制の完璧
を期する・・・・・」

 と述べた。さらに内務大臣、平沼騏一郎は同議会で国体とは何かを

 「・・・天皇が国家を統治せらるる、其の天皇は万世一系であらせられ
る」ことに帰着すルト規定し、この国体に沿って

 「十分教化の方面に力を尽くし、尚お之に洩るるものがありましたな
らば、是は法規を以て取締r,之に対しては徹底的な弾圧を加うること
が必要」があると述べた。

 改悪治安維持法における「類似宗教団体等に関する処罰規定」の
新設については理由説明で、

 「皇道大本、天理本道、灯台社等の所謂類似宗教運動。の検挙
処罰例を挙げた。国家神道の内容と共通か似た要素を持つ宗教
団体の意味とされる。したがって教派神道的な宗教団体となる。

 改悪治安維持法は第七条、第八条において「類似宗教団体等」
の処罰について、

 第七条:国体を否定し又は神宮若は皇室の尊厳を冒涜すべき事項
を流布する結社を組織したる者又は結社の役員其他指導者たる任
務に従事したる者は無期又は四年以上の懲役に処し情を知りて結社
に加入したる者又は結社の目的の遂行の為にする行為を為したる
者は一年以上の勇気懲役に処す。

 端的に国体とは、記紀を聖典として、天照大御神を皇祖とする
現人神の天皇がこの日本を支配統治するすべての国家的原理
、制度を意味すると思われる。その意味で日本は万邦無比の神国
である。国民は天皇の御稜威を全世界に波及させる使命を担って
いる。

 かくして近代天皇制・国家神道ファシズムは激化する一方であり
、国体の教義、思想に少しでも異端な宗教はその弾圧は熾烈さを
ますばかりであった。

 宗教弾圧を受けた団体は上記の十七にとどまるものではなく、
単に代表的なものにしか過ぎない。検挙され、起訴された宗教者は
キリスト教、神道、仏教を通じて多数にのぼる。治安維持法が改悪
された1941年,唱和年には宗教関係者で検挙され、取り調べを受け
たものは1011件に達している。

 弾圧では新宗教とキリスト教が特に激しく弾圧を受けた。新宗教
は公認宗教と異なり、邪教扱いされ、明治初期から、例えば病気治
癒の祈祷なども警察の厳しい干渉をうけてきた。新宗教は教祖(創
唱者)自身が生き神様とされることが多く、教祖を中心に結束し、閉
鎖的であり、国家神道を絶対とする邦の熾烈な弾圧干渉を受け続
けた。新宗教では特に独自の神の観念、教祖の生き神化、などが
天皇の宗教的権威を害すると見なされがちだった。公認宗教も、戦
協力などには懸命に努めたが真宗、日蓮宗、天理教では教義の改
定を強要された。権力への迎合が生存の条件であった。

【皇道大本への史上空前の残虐、野蛮、大規模で執拗な警察に
よる宗教弾圧、地上からの抹殺が合言葉】

 その概略

 大本は京都府綾部に住んでいた貧しい大工の未亡人であった
出口ナオが1892年(明治25年)、突如として神がかりとなり、新たに
創唱した神道系の宗教である。それまでナオは金光教に属してい
た。この神がかりで近所の人は「可哀想に、ナオさんもあんまり苦労
して頭がとうとうおかしくなった」と噂もされ、座敷牢に閉じ込められ
たりもした。だが三千世界一度に開く梅の花、とナオの腹の底から
神の声が湧いてきた。それは艮の金神であった。

 その艮の金神の神がかりによる「お筆先」をナオは書き続けた。そ
の後、亀岡から来た上田喜三郎青年と娘のすみを結婚させ、ここに
女婿の出口王仁三郎と出口ナオによる大本教が始まった。明治末期
から活動は王仁三郎が受け持って、教義も整理し、第一次大戦中か
ら後にかけては独自の神話世界による皇道の大正維新、神政の実現
を唱えて全国に進出、新聞も買収して活発なメディア活動を繰り広げ
たが1921年、大正10年、不敬罪、新聞紙法違反で第一次の弾圧を
受けた。その後は世直し的な教義は控えめとなり、人類愛、万教同根
、霊主体従を説いて王仁三郎の入蒙もあったりで、紅卍字会との連携
など海外の宗教との協力関係の樹立、海外にも進出行った。

 日本のファシズム化に伴い、大本は昭和維新を唱える皇道実現の
政治運動に乗り出し、昭和神聖会を結成するなど政治への関与を深
めた。1935年、昭和10年0大本の壊滅、地上からの抹殺の命を受け
た内務省の薄田美朝が京都府警察部長に赴任した。一年近くにわ
たり、京都府警は極秘にアジトを作り、壊滅のための準備作業を続け
た。

 1935年冬、王仁三郎はクーデターを準備中の皇道派の青年将校か
ら多額の資金援助を求められた。その直後、12月8日未明、潜行した
特別検察隊、250名は綾部を急襲し、大本幹部150名を検挙し、さらに
別働隊300名は亀岡の天恩郷をこれも急襲した。亀岡で王仁三郎の
後継者である出口日出麿ら60名を検挙し、これに呼応して内務省の
警保局の指揮により、全国的な大本の捜索、手入れが行われた。

 王仁三郎は松江の滞在先で検挙された。これは特に念入りでもの
ものしく、当時の島根県の700名の警察官のうち、280名が動員され
た。王仁三郎は直ちに松江署に連行された。奪還を危惧して松江駅
からでなく二つ京都寄りの駅から京都の二条駅に護送され、中立売
署に留置された。東京では昭和神聖会本部など七ヶ所が急襲され、
出口伊佐男らが検挙された。

 綾部、亀岡の両本部では一斉検挙と同時に捜索が開始され、
連日、お筆先、「霊界物語」など書籍、文書、日記、原稿、メモ、刀剣
類など「不逞の目的」を裏付ける証拠物件とみなされるものを5万点
以上押収した。本部事務所、神殿などの主要建築物は封印されて
警察の完全な管理下に置かれた。鉄条網が張り巡らされ、立ち入り
は一切禁止された。事件に驚いた全国の信者たちは本部に馳せ参
じようとしたが各地で足止めされた。全国の大本支部109ヶ所も捜索
ヲ受けた。京都に護送された全国の幹部は44名に達した。

 メディアは特高に寄る共産党弾圧、第一次大本弾圧にまさる、警察
側に完全にたった大本中傷、罵倒の口汚い生地を書き並べ、これは
敗戦まで一貫した。

 「邪教、大本に鉄槌下る!」などの大本への罵詈雑言が新聞に舞っ
た。論陣は国賊、妖魔、王仁三郎を罵る激しさであり、今に連なる有名
大新聞ほど激しかった。

 政府は皇道派の革新、青年将校らが皇道大本と密接な関係がある
と見ており、青年将校らのクーデターを恐れた当局は大本弾圧で資金
源を絶とうとした.メディア総掛かりの邪教、国賊、不敬と大本を決めつ
けることで右翼、革新将校の蜂起を阻止しようとした。

 1935年、12月15日、内務省、京都府特高、京都地検は、共同作業
で押収物の整理を始め、弾圧、壊滅を正当化するための資料を作り上
げた。内務当局は、これらの資料を元に「大本事件の真相」なるパンフ
レットを作成し、全国に配布した。その後の徹底的な壊滅作戦、地上か
らの抹殺の正当化とした。

 1936年(昭和11年)1月、京都で大審院検事局、内務省警保局、京都
府特高、京都地検の合同会議が開かれた。起訴と同時に、大本の解
散と建造物の徹底した破壊が決定された。1月16日より取り調べが開
始され、すでに弾圧の理由を周到に作り上げ、起訴と同時の大本の解
散、施設の完全破壊を決めていた当局はなんとしても被疑者から当局
自身が創作した弾圧の正当化となる「自白」を引き出すことが絶対だっ
た。

 取り調べは野蛮、残虐を極めた。後継者の出口日出麿は特に激しい
拷問にあい、ほどなく日出麿自身、発狂するに至った。発狂しても取り
調べに容赦はなかった。王仁三郎にも拷問が加えられ、長髪を掴んで
引きずり回し、たびたび王仁三郎が失神するという残虐さだった。共産
当弾圧などに用いられた特高の非道な拷問が続いた。焼きごてを当て
る。水責めは常套手段、、竹刀で全身を殴りつける、酸鼻を極める野蛮
さであった。

 さらに「王仁三郎は自白した」と嘘をついて自白を引き出そうとしたり
したのも常套手段。拷問に拠って獄死、または自殺、保釈後に死亡し
た大本幹部は20名を超えた。

 被告らは特高の拷問から裁判に一縷の望みをかけたが、予審判事
の取り調べも恐るべき精神的拷問となった。自白を拒否すると、被告は
自白するまで何ヶ月でも放置された。

 同年2月26日、皇道派青年将校ノクーデターが発生。このクーデター
の抑圧収拾に名を借りた陸海軍現役大臣現役生が復活、日本のファシ
ズム化は決定的となった。直後の3月13日、王仁三郎、すみ夫妻以下、
大本幹部61名が不敬罪、治安維持法容疑で起訴された。

 起訴理由は大本が「国体変革」を目的として結社をし、政権の奪取を
企てたという筋書きが中心であった。

 内務省は禁止令で大八団体、皇道大本、人類愛善会、昭和神聖会、
昭和青年会などがすべて解散を命じられた。

 政府は裁判の結果をまたず大蔵省通達118号「神社に紛らわしき奉
斎施設の除去」を口実として、大本の全施設の破壊撤去に乗り出した。
教祖、出口ナオの墓も暴いた。当局は「大本の地上からの抹殺」を公言
してはばかることはなかった。

 当局は大本からの聖地の奪取を謀り、綾部、亀岡の五万坪もの大本
の所有地を賃貸価格に準じる、という超安値で綾部町、亀岡町に売却さ
せた。さらに開祖の出口ナオの墓の破壊が始まった。ナオの墓は綾部
の天王平の町営墓地に築かれていたが、当局は町議会に圧力をかけ、
墓地の廃止を決議させ、それを理由に墓の移転を迫り、もとの墓を粉砕
し、破壊の池を石で埋め、苑内の樹木は根こそぎ倒壊させた。信者の納
骨堂も破壊された。また信者の墓石の「宣伝使」などの文字を削り取った

 徹底的な破壊で亀岡、文部の大本施設は瓦礫の山となった。雑草の
生い茂る見るものを驚かせる荒廃の廃墟とかした。これらの破壊費用も
すべて大本の負担とさせた。

 三月から、全国各地での大本信者の弾圧は熾烈さを増した。残った幹
部の摘発検挙、礼拝施設は個人のものでも破壊された。大本関係の書
籍はすべて発禁となり、没収された。

 信者たちは社会からの迫害も深刻であり、国家神道・近代天皇制ファシ
ズムは悪鬼の様相を呈していた国内は忠君愛国、天皇崇拝一色となり、
狂信的な滅私奉公が叫ばれた。その中での大本信者に投げつけられる
国賊、非国民という攻撃、差別、偏見は村八分を生み、仕事を終われ、職
場を追われるもんも相次いだ。住居をおわれ、転居するもの、取引を停止
され廃業するもの、信者たちの生活は危機にひんした。

 大本抹殺に異常なほどの意欲を燃やした国。そこには大本に流れる真
に民衆的な伝統、政治の変革と民衆の救済、ーという考えの浸透を恐怖
したためである。元来、記紀の絶対化の国家原理かという荒唐無稽に立
つ近代天皇制、その現実離れした一人の天皇の現人神という虚妄の威
厳を守るため即時の神話体系を持つ大本の存在を許容できなかったの
である。

 裁判は続いた。追求の商店はもっぱら国体変革の教義と結社の事実
にしぼられた。被告一同は、起訴理由は事実無根であり、余震調書は
拷問による検事の創作として断固として譲らなかった。被告たちは順次
保釈されたが、王仁三郎ら五名は度重なる保釈申請も却下され続けた
。その獄中生活は三年八ヶ月になっていた。人権擁護の観点から弁護
側は異例の抗告を行った。

  獄中で「無罪」を意味する六本指を示す王仁三郎

  
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 第二審は昭和17年7月、治安維持法は無罪、不敬罪其他を有罪とした
。王仁三郎には最高系の懲役五年は言い渡された。同年8月、王仁三郎
、すみ夫妻は保釈された。しかし当局も治安維持法無罪を不服で上告、
被告も不敬座などの有罪を不服で上告と戦いは終わらなかった。

 大審院の判決は敗戦直後の1945年9月、第二審そのままの双方へ
の上告棄却で終了した。翌年10月、不敬罪の消滅による「大赦」で全員
の無罪が確定した。

 ★出口王仁三郎、国家への損害賠償請求を放棄

 ここに世界史的にもまれに見る宗教弾圧、大本弾圧事件は決着した。
その後、弁護士などがあつまって、国家への損害賠償請求を話し合った
。宗教施設の破壊の限り、土地の収奪、拷問の限りの非人道性、その
損害賠償額は当時の水準でもゆうに数億円以上と見積もられた。

 しかしこの話を聞いた王仁三郎は、

 「損害賠償請求はやめていただきましょう。国から取るといってしょせん
は国民から取ることです。大本は実は一銭も損はしておりませんから」

 これを聞いた弁護士たちは、真の宗教者とはこのようなものかと感歎
したという。

  大本弾圧事件解決奉告祭(昭和20年12月8日)鶴山山上で祝詞を
あげ、祈りを捧げる出口王仁三郎、二代目教主澄、その横に娘の
八重野の夫、出口宇知麿(和明氏の父親)、信者たち。

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 だが長い間の獄中の生活は王仁三郎に大きなダメージを与えていた、
1948年昭和23年1月19日、出口王仁三郎は昇天した。聖師、昇天の報
全国の信者に大きな衝撃を与えた。王仁三郎の遺体は信者の作った霊
柩車で信者の手によって亀岡から綾部まで運ばれることになった。高齢
の女性までが、これに同伴したいと願い出た、道中は長く厳しいと言われ
ても「途中で死んでも悔いはない」という一念で希望者は同伴した。落伍
者は一人として出なかった。

 王仁三郎が保釈されてから話した言葉、ミッドウェー海戦の後くらいの
保釈だった。「戦争は勝っている、勝っていると云うが本当は負けている。
1万トン級はほぼ全滅だ」

 「神様が戦争に協力しなくてもいいように大本を獄中に閉じ込めてくだ
さったんだ。神様は戦争は大きらいや」

 戦後朝日新聞の取材に、鳥取県吉岡温泉での有名な発言

 「日本民族は断じて亡びない。今日本はすっかり軍備がなくなって
しまったが、これは世界平和への先駆者としての尊い使命が含まれ
ている。本当の世界平和は、全世界の軍備が撤廃されたときに初め
て実現され、今その時代が近づきつつある。」

「出口なお、出口王仁三郎の生涯」伊藤栄蔵著に掲載されている、
同志社総長、牧野虎次の長年の交友による王仁三郎評を転載する。

 『こと新しく言うまでもないが、翁の人物の輪郭はあまりに大きく、尋
常の規矩では到底、測り知ることが能わない。天真爛漫、ものに拘泥
せぬ点から云えば、大きい子供さながらであった。宗教的天分豊かに
、人心の機微に触るる処を見れば、学ばざる学者、捉われざる宗教家
であった。容易に端倪しべからざる一大存在であった。


 一言にしていえば翁は偉大なる未成品であった。潜心秘め修めた
天地大本の教義も、事に会うては恰も忘れたるものの如く、十年忍
苦の大試練も、顧みて呵々一笑に付して去って了った。


 禅家の所謂「竹密にして流水の通じるを妨げず。山高くして豈に
碍げん白雲の飛ぶを」行雲流水、成がままにまかせ、平然として省
みず。一面からは無神経かと疑わるる計り、無頓着であるが,他面
からは、時の趨勢を察して愛善苑を創め、国際宗教運動を奨める
等、斯界先覚者の面目躍如たるを見遁すことが能わないのである。

  趣味博く、行くとして可ならざるなき側からは、荒削りの芸術家でもあ
った。経綸縦横、島国を狭しとして、大陸に渡り、天馬空を駆ける概を
示すかと思えば、思慮綿密、水も洩らさぬ用意で、エスペラント語を奨
励したり、世界紅卍会と提携したりした。若い老人と云わんか、平凡な
英雄と称せんか、将た又巷の聖者とも評せんか。

 翁のごときはまことに宗教を行ぜるものと称すべし。」




 

 

 

 

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