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zoom RSS 日本初の「処女を守る会」は昭和4年、女優の入江たか子

<<   作成日時 : 2017/02/22 19:23   >>

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   女性芸能人に対して往々にして「処女を守る会」なる「組織」が作ら
れることがある。最近では日常茶飯事だが、私の記憶にあるのは、もう
何年前か、「甲斐智枝美の処女を守る会」なんて確かにあった。あったと
いって実態があるとは言えないのだが。そこで、日本で最初の「処女を守
る会」を奉られたのがいかなる女性芸能人かと調べれば、それは日本映
画史上、絶世の美女でなおさらに家柄の高貴さ、お公家出身という意味で
久我美子と双璧、現実に皇后の女官に取り立てられる寸前であったあの
入江たかこ、なのである。

 ★1929年、昭和4年、「処女を守る会」を奉られるまでの入江たか子

 入江たか子については自著もあるし、ネットでも紹介されているので、
あらためてとは思うが。1911年、明治44年2月7日、東京市四谷区の生ま
れ。本名は東坊城英子、菅原氏の流れをくむ公卿の家柄で父の東坊城
徳長は貴族院議員で宮中御歌所に参候し、従三位に叙せられていた。
母の君子は京都の円山公園の平野家の娘で紫小町と称されていた美人
であった。

 四男三女の六番目、下に弟がいた。四谷第三小学校6年の時、1922年、
大正11年8月、父が53歳で亡くなった後は徐々に家計は逼迫した。その頃、
東坊城の家で自活できていたのは13才年上の長女の敏子だけであった。
敏子は15歳から大正天皇の皇后付きの女官として仕えており、早百合局
(さゆりのつぼね)の名を賜っており、宮中一の美女として有名であった。

 しかし9歳年上の長男の政長はシカゴ大に留学し、父の死から一年後
帰国したが学者として全く認められず、他愛もない発明で特許を取ろうと
いう愚行を演じて、受け継いだ子爵という肩書もあってまともに働こうと
もせず、他の兄弟も気位ばかり高い華族の様相を呈していた。

 英子(入江たか子)は母の苦しいやりくりを見ていたが、1923年、大正12
年4月、洋画の勉強を志して文部省令に束縛されないユニークな教育で
知られていた文化学院(神田区駿河台)の文化学院中等部に入学した。
中川紀元に油絵を習っていたが、その年の9月、関東大震災で家はほぼ
半壊の状態、家財道具もろとも人手に渡す羽目になった。西多摩郡の高
円寺村の小さな家に引っ越したが、もはや、たか子の月謝さえ払えない
状態となった。

 兄弟の中でたか子と一番親密だった三男の恭長は文学青年であると
ともに大の映画ファンであった。やはり子爵で海軍中将であった小笠原
長生の子息でこれまた映画ファンの小笠原明峰がこの年、1923年、大正
12年に映画製作の小笠原プロダクションを設立した。英子(たか子)の兄、
恭長はここでアルバイトをしていたが、日活に誘われて慶応を中退し、19
24年、大正13年、10月、日活京都撮影所に入った。恭長は村田実監督
による「青春の歌」1924年でビューを果たした

 恭長は京都住まいとなり、1926年3月(大正15年)、母と末弟を京都に
引き取った。次女の結婚した長男のもとに、英子(たか子)は宮中の女官
官舎に住む長女のもとに身を寄せた。宮中では洋服は禁じられ、姉の
着古した銘仙に紫紺の袴姿で文化学院まで通った。同窓生は34名、同
時としては稀な男女共学であった。だが女子が30名で多数であった。そ
の中には子役として舞台経験もあった美少女の夏川静江、またひときわ
派手さが目立った後の伊達里子(石川三枝)もいた。

 その頃から英子(たか子)は皇后からぜひとも女官になったらと誘い
を受け続けたが、これを固辞し、1927年、昭和2年3月、文化学院を卒業
すると同時に京都から兄の恭長が迎えに来たてその日のうちに京都に
移った。女官の長女の出発前「、恭長に誘われて女優なんかに決して
なってはいけませんよ」と諌められた。

 三男の恭長はその気品が売りであり、本名の東坊城恭長という本名
で売り出し、準主役級になっていた。姉兄は多くとも皆バラバラの生き方
であり、たか子にとって一番気の合うのは趣味性も合致した恭長しかい
なかった。

  京都で三男の兄恭長と英子、母と末弟の四人ぐらしはとても幸福で
あったという。京都に移っ手間もない3月27日、村田実監督の「椿姫」の
製作中の主演、岡田嘉子が竹内良一と失踪するという事件が起こり、そ
の代役で文化学院からやはり日活京都に入った夏川静江と恭長が共演
となり、文字通り主役クラスとなった。まだこの時点では、たか子の女優
への道は始まっていなかった。

 ところが恭長が客演していた関西演劇の草分けのエラン。ヴィタール小
劇場の主宰者にsて演出家、俳優でもあった野淵昶にたか子を紹介した。
野淵は恭長に四日後に控えた「ワーニャ伯父」のソーニャ役で出演予定
の白樺澄子が急病となり、代役に窮していると伝えた。もう一つの演目で
あったチェーホフの「犬」の演出を恭長が担当していたのである。野淵は
「なんとか助けてくれ」と恭長に泣きついたら、恭長はかたわらの英子(た
か子)「やってみる気はないか」と話かけた。野淵も同時に懇願した。二人
の説得によって、ついに英子(たか子)は舞台に断つ決心をした。

 英子(たか子)はわずか3日の稽古で5月20日、21日、京都YMCAにおけ
る「伯父ワーニャ」に出演、初舞台となった。この時か、芸名を恭長が正
式に「入江たか子」つぉた。これは恭長のこだわりの名前であった。

 伯父ワーニャには野淵が、ソーニャのは入江たか子。同志社新聞での
評価は「表情は少し抑揚が開きすぎたが、まあ地主の娘で人生の何事
もが彼女の感傷の最大限の発揚をそそるような年頃を経過した少女役
であると思えば許される。しかし『地』と『役』は違うのだからいつでも地
声を出しさえすればいいと考えてもらっては困る」

 が細かい点はさておいて、入江たか子の抜群の美しさが評判となった
。あまりの美貌ゆえにずぶの素人でもこれだけ評価されたのである。

 舞台を重ねるうち、当時日活の新進気鋭の監督、内田吐夢に恭長に
よって、たか子は紹介された。内田吐夢に熱心に誘われ、また母が日活
撮影所長の池永浩久と旧知の間柄だったこともあり、たちまち話がまとま
り、1927年昭和2年10月1日から出社した。

 以上が日活入りするまでの入江たか子の概略である『キネマ旬報』を
参照しました。

 ★日活京都撮影所内に出来た「入江たか子の処女を守る会」

 日活入社後、映画出演を重ね人気急上昇の入江たか子。

 1929年、昭和4年、ある種の左翼的思想を含んだ日活の「傾向映画」が
話題となった。その最初の作品「生ける人形」は大変な話題となった。
片岡鉄平、の作品が原作であり、監督は入江たか子を誘って映画界に
いれた内田吐夢、主演は入江たか子であった。

  昭和4年4月19日封切りの「生ける人形」入江たか子、小杉勇

 
画像


 役柄は野望を抱く田舎から出てきた一人の青年を軽くあしらうという
都会的なタイピスト役であり、それまで日本映画には見られなかった近
代的なヒロインであ理、爆発的な反響を呼んだ。同時に「傾向映画」の
先駆けとなった。

 入江たか子はこの年、実に13本もの映画に出演した。「生ける人形」は
昭和4年nベストテン第4位、さらに二作品がベストテン入りした。さらに翌
昭和5年にも12本に出演、人気は比べるものがなかったほど。

 この頃、日活撮影所内に「入江たか子の処女を守る会」が設立されたの
である。 、。

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