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zoom RSS 西村伊作(文化学院)戦後の豹変、津川雅彦を生んだもの

<<   作成日時 : 2018/08/09 10:24   >>

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概して芸能人では「文化学院」に行ったというケースが多い、まあ入江若葉も
そうだし、亡くなった津川雅彦も最後は文化学院、はるか戦前から奥ゆかしい
教育内容を誇る、といって過言でもなさそうだが、ここで留意点がある。事実上
の創立者といえる西村伊作の戦後の豹変問題である。

  1943年に西村伊作は不敬罪で逮捕投獄された、天皇制に従順でない、反政
府思想をばらまいたなどで。その年の夏。文化学院は強制的に閉校とされた。
天皇及び国策への不協力教育機関の最たるものと目をつけられたのである。

 とはいえ、上笙一郎氏(児童文化評論家)の証言によれば、当時、文化学院で
きかされたのは多くが恋愛論であり、自身の体験や知人、卒業生などの実体験
を話すから面白くて仕方なかった、戦時下の強圧的雰囲気とは無縁だった、との
ことである。縦横無尽だっったという。教育者でも性愛は大いに肯定し、不倫の愛
も時と場合によれば肯定されるということだった。実際西村伊作が戦後出版した
本は恋愛談義ばかりであった。

 上笙一郎氏のこれも証言だが、西村伊作院長は教室を歩き回りながら、可愛い
女子学生を見つけると、その横に立ち止まり、(君、可愛いね」といって一呼吸し
て額に口づけをしてたという。

 「紀州人気質」を最も受け継いでいたのが南方熊楠奈良二番目は西村伊作と
いう評価がある。思想より気質が優った、その生き方だという。

 戦前の西村伊作は、若い頃、社会主義思想に接近し、そこから平民社にも
近づき、社会主義書籍伝道の行商にも参加していた。だが何より強調されるべき
は西村伊作が大山林地主という経済力に依存した人間であったことである。あく
まで運動への参加も個人的良心によるものであり、労働者農民に基盤をおいたも
のではなかった。

 上笙一郎氏も強調しているが、終戦後、農地改革は行われても山林はそのまま
であった。西村山林の大地主で有り続けた。

  西村伊作は戦後の初期の文化学院の講義において、徹底した反共産主義、
反社会主義的なものに変わっていたという。国家権力は親米一辺倒でも、思想
は社会主義への傾斜が著しく、何か良心の義務とさえ化していた。西村伊作の
友人、知人も大半がそうであった。そのことが紀州人らしい「天邪鬼」的な反発
を呼び起こし、それが親米反響へ向かわせた、とも云われている。かくして西村
伊作は反共発言ばかり繰り返した。

 真の頑強な思想があっったというより支配的な風潮に反逆するという気質の
現れにせよ、この文化学院の変質!はそこに学んだものへ影響を与えずには
置かない場合もあったのである。

 

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