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zoom RSS 「鎌倉アカデミア」で学んだ思い出、一期生、前田武彦氏の懐古談

<<   作成日時 : 2018/07/25 11:38   >>

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2017年5月に公開された「鎌倉アカデミア 青の時代」終戦後、独自の教育理念で
存在した自由学校ともいうべき鎌倉アカデミア、大学も目指したが専門学校扱い、だ
が心意気、レベルは大学だった。わずか四年半しか存続し得なかったがいまなお「野
散の大学」、「寺子屋大学」とも称され、伝説的に語り継がれている。タイプは違うが、
文化学院と双璧かもしれない。僅かな年月でも戦後教育史に残した功績は大きい、
また輩出した卒業生たちの充実ぶりは素晴らしい。
 
  その第一期生の前田武彦さん、もう亡くなられましたが、の懐古談。

 僕は新聞広告で鎌大の学生募集を見つけました。当時、戦後の焼け跡時代には
とても新鮮に見えましたね。場所が鎌倉で先生方も有名な文化人ばかり、普通の大
学はまだ一般に女子部がなくて男女共学もすごくロマンティックに思えたものです。

 今から考えれば普通の大学に行っていれば、もっと普通の人生を選ぶことになった
と思います。でも将来どういう会社に勤めてという普通の人生がまだ描けない時代で
した。戦後の混乱期でしたから。東大とか早稲田という発想よりもみっそのこと男女共
学で、鎌倉のそばのお寺の方が面白いんじゃないかと、何があるか楽しみだな、という
うくらいの気持ちでした。

子どもの頃から演劇方面、芝居に憧れていたということがありますね。旧制中学の
クラスメートに松竹大船撮影所の所長の息子さんがいたんです、で、撮影所を見学
なんかさせてもらって、映画もいいなと思ったりしてました。どういう仕事かはよく分か
らないけど、演劇とか脚本とかドラマに関係するような勉強をしたいなと思っていたん
です。鎌大には当初、映画科はなくて演劇科に入ったということです。

 戦争中は私は予科練にいました。軍国少年というやつですよ。戦争が終わった反動
で鎌大のような自由を求めていました。そんな人は多かったと思いますよ。中には「大
学」という部分に拘って角帽をかぶったり、校章をつけたりしていた人もいましたが、そ
ういうのはしだいに廃れて、みんな私服で集まる自由な校風が主体に成りました。今で
はどこの大学でも当たり前なんですが。

 僕らの演劇科は最初は25名、文学科と産業科をあわせて100名少しでした。それが
狭いところにいて自然に顔も見知っているから、学科を超えた付き合いがありました。

 印象に残るのは遠藤慎吾先生ですね。当時一番若かったんじゃないかな、それから
村山知義先生。脚本家の斎田英二郎さん、演劇科科長の飯塚友一郎さんは早稲田の
教授もやってましたね。

 英語とかフランス語とか、他の大学並みにありました。吉田健一さんとか中村光夫さ
んとか、それにしても今思えば超豪華キャストでした。各界のすごい人ばかり、他の同
級生の口によくのぼるのは、三枝博音さんや吉野秀雄さんの講義は、僕にはなにか難
しすぎてよくわかりませんでしたが、わかったみたいな顔で聞いてました。だって予科練
あがりで旧制中学に戻ってすぐの春でしょう、何もわからない状態でした。今の僕が聞い
ても分からないかもしれませんが。

 サークル活動も活発でした。サークルといって場所も資材もなにもないけど、みんな
サークル活動と思ってグループを創ったんです。僕らは劇団を作ったり同人雑誌を書
いたりしてましたね。

 サークルではなく、学校の演劇科としても何度も公演はやってます。一回目はよく
覚えています。日劇の小劇場でやって「春の目覚め」、これは札止めの盛況でしたが
、日劇ってストリップもやっていますから、そこに持ってきて「春の目覚め」ですから皆さ
ン、勘違いされたんですね。すごいところでやったものです。長い芝居でね、それでもお
客さん、帰らなかったですよ。

 ストーリーは名前の通り、青春モノでした。余り露骨には書いてませんが、思春期の
少年たちの同性愛です。よく原作を読むとわかるんですが、なぜ僕は、何で男同士で
キスするのか分かりませんでした。それに当時の新劇なんかでは、そういう部分は
カットしたらしいのですが、僕らのはノーカットでした。

 本格的な商業劇場の舞台に立ったのはそれが初めてでした。ほとんどは学校の
講堂でやってました。卒業公演は毎日ホールでやった「森林」、それも僕は役者の方
で出ました。

 そうです、僕らが大船の海軍燃料廠跡の校舎に通ったのは最後の一年だけです。
実を言うと僕はそこにあんまり行きませんでした。卒論を描かないといけなかったんで
す。そのためだけに行った感じがします。だから僕の鎌倉アカデミアに対する思い出は
、材木座の光明寺に尽きますね。

 それにしてもお寺がよく外部の人間たちに貸してくれたものだと思います。もっとも
僕もお寺を荒らすようなことをやった記憶はありません。今の若い人のようにはね。
あ、卒塔婆事件?ああ、冬場に暖を取るために焚き火をして、三枝先生にすごく叱られ
たとか、そういう騒ぎがあったと思います。直接には知りません。逆に近所に家事があっ
たときはみんなで消火に行きました。

 初恋の人は

  学生の大多数は鎌倉駅から歩いて通ってました。20分以上かかりました。でも
ちょうどいい距離でした。帰り道で海岸べりに行って砂浜に腰掛けて、偉そうにいろ
んな議論をしてみたり、あるいは女の子と恋らしきことをやったり、でもね、男女共学と
いうことが非常にピンキーに捉えられた時代なんです。男女間の乱れはあんまりなか
たtですね。そりゃ僕も好きになられたことはあります、今でもそのころお付き合いのあ
った人達と話すとうぶだったなと笑い合いますよ。いえ、特にモテるってことはありませ
んでした。年上の人ばかりでしたから可愛がられました。

  山口瞳さんの奥さんになられた山口治子さん、もおられたんです。昔から物腰の
柔かい、いい方でした。瞳さんの下の妹の栄さんはジェリー伊藤さんの奥さんになっ
たんです。彼女は僕の初恋の人でね、まあ、本人にも云ってますから、花柳若菜さん
といって今はアメリカに在住です。

 栄さんはまだ当時、青山学院の女子学生でした。年齢は僕よりニ、三才下でした。
同期ではないけど鎌倉アカデミアに入られてきて、学校でじゃなくて山口さんのお家
で。僕が学校を出てから、東京で一回だけデートっていったので宝塚劇場にミュージ
カル・ショーを見に行きました。本当にプラトニックでした。

 僕は22歳まで実は童貞でしてね、だいたい予科練なんてそんなもんですよ。特攻
隊のパイトットでもなれば出撃前に女を抱かせてくれるでしょうが、そんな余裕もあり
ません。そのまま死んでいたら犬死ですよね、もう少し戦争が長引いていたら死んで
いたはずです。

 予科練と鎌倉アカデミー、そのギャップは大きいすから。思想的にも左右対称です。
アカデミアはどちらかといえば左翼系の文化人が多かったですね。でも僕が鎌倉アカ
デミーにいた頃はその方は開眼していませんでした。

 同級生にはもう民青、青年共産党に入っていたひとはいました。いずみたくなんかも
そうです。あいつも軍隊上がりで、なんで鎌倉アカデミーに入ったのか。作曲家になる
前はタクシーの運転手とかいろんな職業に就いていたらしいけど、その後あったときは
彼は完全なコミュニストでした。でもそういう関係から僕は共産党の人達と仲良くなった
し、今でも嫌いじゃないです。

 どうかすると山口瞳さんなんかと兄弟になっていたかもしれないですね。山口さんの
お宅って開放的でよく遊びに行きました。山口さんのお兄さんも鎌大の同期、上の妹
の麗子さんはクラスメートでした。彼女はな亡くなりましたが、やはり日舞をされていて
、後に花柳麗輔と名乗ってました。不思議な感じのお宅でね、昔は置屋さんだったそう
です。お母さんも女将さんみたいな雰囲気でした。話し方も非常に江戸前でしたね。

 僕はね、瞳さんのお父さんに一度だけ、お金を貸したことがあるんです。僕は学生
時代に真珠売買のバイトをやっていて、信用貸で真珠のネックレスを預かり、売れた
金からマージンをもらうということでかなりの収入でした。

 瞳さんのお父さんから「一晩だけ貸してくれないか、学校の資金に必要なんだ」って。
いつもお世話になっている家の方ですから、貸したら親父にひどく叱られました。もし
返ってこないと僕には返済がつかない金額でしょ、「すぐ返してもらってこい!」と云わ
れて、田園調布から鎌倉に最終電車で行きました。

   もし今でもあったら入り直したい


  僕の卒論は「映画における子役」でした。マーガレット・オブライエンというハリウッ
ドの子役がいたんですが、この子の出演映画を見て、一体どうしたら子役にこんな
演技をさせられるのか、と思いって全部、想像、推論ですが、論文でなくエッセイに毛
がはえたみたいなもんですが、遠藤慎吾先生に「たった一本の映画でよくかけたね」
と褒められました。外国映画の子役はたしかに日本とは全然違います。どうしてあん
な名演技が出来るのやら、未だに説明もつかず不思議で仕方ありません。

 卒論ねぇ、どこかに残っていたら読みたいですね。山口瞳の卒論なんか値打ちがあ
りますよ。卒論は返してくれないんでしょうか?そうか、教授の感想文もあったから、返
してもらって自分でなくしたんですね。

 僕って大事なものをとっておくという習慣がなくてね、後悔しているんです。テレビ開
局のときからの台本とか資料とか、どんどん捨ててし待って、田川水泡さんとか手塚治
虫さんの肉筆の色紙などこにいったのやら、言い訳をすると過去にこだわりたくないと
いう僕の考えの基本にあるんです。昔のことって本当に覚えていない。楽しい思い出で
あっても記憶に留めたくないんです。今ハッパソコンに全て保存できるのに、あの当時
はかさばってしまい。記録が溜まって増えていくのがうっとおしくね。こうして鎌倉アカデ
ミアのこともあんまり覚えてないんです。

 卒業後はとにかく食べていかないといけないので、アメリカ資本の貿易会社に勤め
ました。鎌倉アカデミアの演劇科なんていってもどこにも就職できませんよ。でも演劇
科から、また映画科、文学科からも舞台とかテレビ、映画関係に進んでいる人は多い
んですよ。他の大学では味わえない空間を求めて若者たちが集まったんですよ。

 今でもこういう先生方がいる学校があれば入り直したいですね。みんなんそう思って
いるはずです。ほんんお5歳でいいから若返らせてくれたら、その5年間をそれだけに
使ってみたい。鎌倉アカデミアの同期生に会うと、今でも昔と同じことをやりたいといい
ますね。
 

 

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