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zoom RSS 小林多喜二の小樽高商時代と大熊信行、伊藤整

<<   作成日時 : 2018/07/23 21:26   >>

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 小樽出身の作家、伊藤整は「若き詩人の肖像」の「海の見える丘」において
伊藤氏自身の小樽高等商業時代の体験を綴っている。もちろん他の作品で
も述べていいる。その中で印象深いのは当時在学していた小林多喜二につい
手の記述である。小林多喜二の作品はプロレタリアート文学としての名作は
当然としても、プロレタリア文学に入る以前の初期の小品的な作品、日記や
書簡、未完の長編など大いに興味をそそられるものである。端的にいいえば
プロれたリア文学作家になっていなくても小林多喜二はひと角以上の作家に
なり得ていたという気がする。才能である。

 近年はその初期の作品、文章への研究も多くの成果が出ている。入手しや
すいのは『小林多喜二、ー21世紀にどう読むか』(岩波新書)だろうか。それら
の初期作品、文章は現行の全集に基本的に収録されているが、曽根博義氏
の指摘にあるように、「大熊信行宛書簡」二通、最初期の短篇「老いたる体操
教師」が全集に未収録である。地味過ぎてあまり面白い話でもないが。

 1921年、小樽高等商業に入学した小林多喜二はその創作活動を既に開始し
、学内の『校友会誌』に数々の作品を発表するとともに、東京の商業雑誌であ
った『小説倶楽部』などにも懸賞小説の応募を行ったりした。1924年に卒業後は
銀行に就職し、仕事との両立で約二年間は小樽の友人たちと創刊した『クラテル
』や「小樽新聞」など地元の雑誌、新聞が主な発表場所となった。卒業後も学校
とのつながりは続き、『校友会誌面』や高商の新聞「緑丘」にも投稿をしている。

 『校友会誌』については例の伊藤整が『若き詩人の肖像』の中に述べている。

 それによると

  私は小林多喜二なる文学青年をそれとしりながら、近づかなかった。従って
綿石は、彼とその同級生で、どういう都合かでこの田舎の学校入ってきた高浜
虚子の息子の高浜年尾とが中心人物であった校友会編纂部に近づかなかった
。私の同級生では、背が高くって、いつも眠そうな、あたりに無関心そうな顔をし
て、一目見て、「文学」というものに取り疲れていると私にはわかった佐々木重臣
が、その編纂部に入った。その白い表紙の無愛想な雑誌は、学校の運動部など
の色々なニュースの外に、歌や詩を載せて年二回発行されていた。入学して間も
なく、原稿募集案内が張り出されたが、私はそれに応じようとする自分の衝動を
押えた。


  しかし事実はこれと異なっている。伊藤整の小樽高商入学は多喜二の一年後
、1922年4月だが、ところが入学直後の校友会誌第25号(歓迎号、22年6月)に小林
多喜二の翻訳に続いて、伊藤整の詩「春日小曲」が追い込みで掲載されている。

 虚子の息子の高浜年尾は多喜二と同級で、卒業も同時だが、東京の開成中学
を卒業し、小樽高商に入ったのは二年前の1919年であり、20年7月の校友会誌に
早くも二句載せている。その次の第18号には編纂部員になっている。その後は
丹毒を患ったりで留年を重ね、多喜二らと同級になった。年尾は卒業まで校友会
誌の編纂を牛耳った。多喜二はそのしたで編纂部員となり、その間に「継祖母の
こと」、「ロクの恋物語」、「ある役割」などを発表している。年尾との折り合いは悪
かったという。


  多喜二や高浜年尾の卒業後は佐々木重臣が編集、発行人となった。伊藤整が
そこにまとめて詩を発表するのはそれらの号である。多喜二の入学と同時に小樽
高商に赴任し、1923年6月に病気で辞職した異色の文学的素養のある経済学者、
大熊信行は二年余という短い在職期間中、多喜二や年尾に好ましい印象を抱い
ている。着任早々、高浜年尾の編纂委員時代、21年7月の校友会誌第21号に童話
「二つの村」を寄稿、小樽を去った1年半後、佐々木編集時代に対話エッセイ「アダム
・スミスの漫画化」を掲載している。

    大熊信行

  
画像


  小林多喜二と大熊信行との関係は伊藤整が「幽鬼の街」、「若い詩人の肖像」な
どに書いているが、それらを読んだ大熊が訂正するという形でよく知られてきた。全
集をよめば、多喜二は高商卒業後も大熊を尊敬し、交際を続けてきたのである。

 かって七夕市に出品されて話題を呼んだ1926年3月と27年2月の大熊信行宛の
多喜二の書簡がそれをはからずも証明している。後者の書簡は大熊信行の最初の
著書『社会思想家としてのラスキンとモリス』が近くしんちょうしゃから出ることを読売
新聞で知った、でたら『小樽新聞』に広告文を出してもらって友達にも勧めるという内
容、大熊から同書を贈られた多喜二は、約束どおり『小樽新聞』に広告文でなく、れ
っきとした紹介記事を寄稿している。「大熊信行先生の『社会思想家としてのラスキン
とモリス』」署名入りであった。師に対する敬慕と感謝の念は多喜二の死後、まもなく
大熊自身によってその文章が公表されている。

  「モリス社会思想は、人間社会の未来に懸けられた美しき虹であり、而して此の
虹を照らした偉大な夕陽は実にラスキンである」

   此のラスキンとモリスを論じ得る、−したがって又論じ尽くせる資格は、経済学者
には半分しかいない、又芸術家には他の半分しかいない。何故ならラスキンとモリス
に於いては此の二つのものは有機的に結合されているからである。自分はこういう
点、大熊先生にはその完全なる資格を見出しえるのである。その繊細な芸術的直感
が経済学的検討と相俟って生き生きとしたラスキンともリスは諸兄の前にその姿を
表している。ことに現下の社会思想の混乱を極むる場合、同先生の直接の薫陶を受
けられた人は勿論、凡ての同窓諸兄によって親しまれねばならない名著であると信じ
る。(小林多喜二記)

          

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