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zoom RSS 寺山修司、「天井桟敷」の思い出〈九條今日子〉

<<   作成日時 : 2018/03/06 10:25   >>

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寺山修司は1983年5月4日この世を去った。元気でいたら今年は年男である。
猪男はその名の通り、猪突猛進したままゴール板を横目に逃げ切ってしまった。
私は彼の生前の23年間と今日に到る24年間を共に過ごしてきた。思えば不思議
な人だった。

ある時は手品師のように
 
   ある時は傲慢な家主のように

   ある時はかけがえのない同志のように

   ある時は平凡な家庭の優しい父親のように

   ある時は悪戯っ子のように

 
  「初めまして、寺山修司です」映画監督の篠田正浩さんの紹介で出会った頃
、わたしは松竹の女優だった。私はちょうど、その頃、女優としての自分の才能に
限界を感じ始めていた。

  「あなたは映画の中でいろんな役を演じてきたけれど、そろそろ寺山映子という
役を演じてみない?」

 出会ってから一年くらい経った頃のデートでの、かれのプロポーズの言葉だった。
正直いって、わたしは次々にプレゼントされる彼の書物は、なにか難しくて、全くと
いってよいほど興味がなかった。

 詩人だから、こんなキザなことが言えるんだ。そのときはそう思いながらも、強引
さに付き合わされているうちに、あるいはこの人と結婚したらわたしの人生は面白
いかもしれないと思い始めてきた。

 一日中会っているにも関わらず、翌日にはポストにもうニ、三通の彼からの手紙
が入っている。言葉を売るのが仕事だから彼には簡単なのだ。ソレに対して私も
彼に手紙で応えるようにと言われた時は困った。「毎日会っているのに、わざわざ
手紙なんてめんどくさいわよ」と言うしかなかった。

 「今、あなたのことを短歌にしているけど、出来上がったら映画を見に行きましょ」

 結婚生活を始めると、私にサービスしているつもりなのか、リビングで一人でいる
私の存在が気になるのか、書斎に閉じこもっても度々顔を覗かせるのだった。

 仕事以外は出来るだけ二人共通の趣味を持とうというのだった。映画や演劇は
ともかく、ボクシングや競馬にまで私を引き込もうと、その魅力を得々と語って、あ
まり乗り気ではない私を説得するのだった。

 そのせいか、私はすっかり競馬にのめり込んでしまい、いまだに競馬場通いを
している。彼の愛した馬の子どもたちが出走してくると、昔なじみの方々から「寺山
さんがいたら、この馬のエッセイを書かれるだろうから、読みたかった」などとよく
声をかけられる。

 「人生はたかが1レースの競馬だ」と寺山は競馬に関するアフォリズムを残してい
るが、それらは現在なお多くの箇所で引用されている。

 短歌、俳句、演劇、映画、エッセイ、写真と彼の好奇心はとどまるところを知らず
、人から「寺山さんの本当の仕事、肩書はなんでしょうか」と聞かれると彼はいつも
こう答えていた。

  「僕の職業は寺山修司です」

 1967年、若い人たちの熱心な要望で演劇実験室「天井桟敷」を設立することにな
った。彼が32歳のときだった。

 「あなたどう思いますか?」と彼は私に聞いてきた。

 「そうね、自分たちのプライベートな部屋と生活が確保されるなら、いいけど」と
、皆のいるその場の雰囲気でそう応えるしかなかった。仕事の打ち合わせで、たま
たまうちに来られていた横尾忠則さんが「僕も仲間に入れて」といったから、若い人
たちが大喜びした。

 「寺山さんの台本で、横尾さんの美術なんてこれは強力な劇団にあんりますよ」

 その頃、借りたばかりの私達の家は鉄筋コンクリートで一階から三階までを借り
ていた。だから私たち夫婦には広すぎた。この時はまだ、私はみんなにお茶でも出
してさえいれば、という程度の気持ちだった。

 だがその後17年間、怒涛の嵐のような演劇活動が待っていようとは想像だにして
いなかった。

 一人の座付き作家がいるとはいえ、旗揚げ公演から隔月での新作発表という計
画の実行は容易ではなかった。寺山はタイトルとプランを決めると

 「向こうで台本を書いて送るからね」

 と言い残して、個人の仕事で海外へ出かけたりしていた。

 ある日、彼から電話が入った。

 「もしもし、台本を書いて思いついたけど、丸山明宏さんと出演交渉してもらえな
いかな」

 またしばらくして

 「松竹から衣裳と小道具を借りてきてもらえないかな、照明機材も」

 私が松竹の女優だったこともあって、スタッフからのなんとか無償で調達して
ほしいという要望があった。

 なにしろ、二十歳そこそこの劇団員は大学生だったり大学中退、高卒ばかりで、
実際の演劇公演の手はずを知る由もなく、何もかも私に降り掛かってきた。

 こんなはずじゃなかった、と臍を噛んだが、でも「さすがは奥さん、劇団のジャンヌ
・ダルクですね」などとおだてられて、二作目からは公演ポスターに「制作・九條今日
子」という名前まで印刷されていた。

 三、四日一睡もしないことも重なり、若い劇団員は無断で逃げ出す人も現れた。
演出家と制作者との葛藤で疲れ切っていた私は、1970年、寺山との結婚生活にも
ピリオドをうって、この嵐のような演劇活動から逃げ出そうとした。

 でも「家庭生活には失敗したけど、せっかく二人で引いてきた屋台まで捨てること
はないでしょ」という彼のことばに思いとどまった私は、結局最後まで一緒に来てし
まった。

 17年間の劇団の経営、演劇活動は苦難の連続だったが、それにもまして国内外
に多くの友人ができたことは、これはかけがえのない財産であったと今になって私
は思えるのである。

 寺山は大学時代に患ったネフローゼが再発し、主治医は強く警告した。

 「寺山さん、演劇活動だけでもやめなさい!」

 彼の仕事で体力を最も消耗するのが演劇であるのは確かで、それは誰の目にも
明らかだったが、彼は最後まで抵抗した。

 ところがある日、寺山の体調がかなr悪いというので「天井桟敷、最後の公演?」
と新聞に載ってしまった。彼は観念したように黙っていた。間近の公演準備のスタッ
フ会議もいままで通りだった。

 演し物は「レミング」。1982年の年末新宿紀伊国屋ホールでの公演は大入り満員
の盛況となった。

 年が明けて札幌、横浜、大阪と「レミング」の公演が決まっていたので、私は寺山
に同行してそれぞれの場所で記者会見する予定をくんでいたら、横浜の会見を終え
て帰ってきたら、寺山が発熱した。

 彼の越は翌日も下がらず、継の大阪は私が一人でいった。出かけた朝も彼は38度
の熱があった。ホテルから会見中止の連絡を格社に入れてその説明で遅い時間に
なってしまった。彼も心配だろうと電話を入れたら

 「どうだった?」

 「みんなお大事にって、公演でお目にかかるのを楽しみにしてますということ、でも
具合はどう?」

 「まだ熱が下がらない、39度ある」

 「じゃ、苦しいでしょ、植y区は?」

 「あんあmりない、いつ帰る?」

 「明日は帰ります、ボランティアでチケットを打ってくれている方々にお礼をしてか
ら」

 「仕事終わったんだったら早く帰っておいで」

 私は受話器をおいた、

 「死ぬのはいつも他人ばかり」というマルセル・デュシャンの言葉を好んで引用してき
た寺山である、ネフローゼで入院していた病室の8人で他は次々と死んでしまい、彼
ひとり生き残った、という経験もあって楽観的な気持ちもあったにせよ、・・・・・


 47年の人生を凝縮したエネルギーを持って、竜巻のように周囲を巻き込んだ射手座
の男は、いまもない、私達の目の前を猪突猛進しているのである。


                       
                                    彷書月刊 2007年2月号

 

    

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