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zoom RSS 梶山季之を今、振り返る意義、広島の作家

<<   作成日時 : 2018/03/05 00:06   >>

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一世を風靡した作家、もとは週刊誌のトップ屋軍団のリーダー、梶山季之は1975年
5月、昭和50年,香港で客死した、既に健康状態は悪化の一途であった。もう亡くなって
今年で43年である、若い世代はもう想像もつかない作家かもしれない。生きているとき
の活躍、その存在感があまりに表向き派手であっただけに、死んでしまうと拍子抜けの
、忘却へと向かってしまう。奥さんがその業績を集大成した「積乱雲」を出版されてはい
るが、あまりに多方面の八面六臂の活躍、純文学作家としては全く未成熟で終わった
としかいいようがない。「李朝残影」は確かに佳作には違いない。佳作だが、・・・・・何か
、わたしはいまいち弱さを感じてならない。私が言ったところで誰も相手にしないだろが。
今現在、梶山季之を振り返る意義はどこにも求められるのだろうか?私も一度、また梶
山季之について書きたいと思いながら気が重くて仕方がなかった。

  この世を去ったのはわずか45歳、自分のことを振り返ればいい、45歳なんてまだ子供
みたいなものだ、それを多方面にあそこまでの活動、業績、・・・・・・天才といえば天才で
ある。だが活躍の方向性が多方面すぎて、これぞ、という未来永劫の業績が残せたかと
いえば、私は残せていないとしか思えない。まだ二十代のころから経済小説、広島高師
の国文科で会社勤めの経験もない、世間知になぜそれほど通じているのか、30すぎくらい
でなzえ「赤いダイヤ」、「黒い試走車」のような作品がなぜ書けるのか、いくらスタッフに
データを集めさせても、・・・・・疑問ではある。

 梶山季之の生涯

 第一期:1953年、昭和28年まで(23歳まで)

 昭和5年1月2日、父親の赴任地のソウルで生まれる。戦後、父親の郷里の広島、
地御前に帰る。やがて肺結核が発見され、大いなる衝撃を受ける。同人雑誌、広島
では東小路秀樹のペンネームも使用、やがて作家になるために上京する。小林美那
江と結婚。

 第二期:1954年、昭和29年、24歳以降

 生活のために梶季之や坂出淳名義でトップ屋となった。あるいは梶健介のペンネー
ムで少年もの作品を書く。この時期に経済もの、時代物、韓国、植民地、などの生涯
を通じてのテーマが出揃う。昭和36年、1961年のはトップ屋稼業を辞める。

 第三期:1962年、昭和37年、32歳以降

 昭和37年2月「黒の試走車」はベストセラー、同時期の「赤いダイヤ」で確固たる作家
としての名声を確立する。以後は経済活劇の旗手となる。講演も増える。

 第四期:流行作家、ポルノ小説を量産、「性豪」作家として勇名を馳せる

 昭和43年、1968年、38歳以降、

 昭和43年1月号の『別冊文藝春秋』に掲載の「ミスター・エロチスト」に始まる。
翌年は文壇で所得トップとなる。ポルノ量産が拍車、同時にノンフィクションでも
活発な作品発表、講演談話、ますます増加。エッセイも増える。
 
  第五期:1972年、昭和47年、42歳以降

 仕事の総括が始まる、月刊『噂』の創刊、昭和49年3月号を持って休刊
喀血、ライフワークへの意欲が高まる「韓国、広島原爆、ハワイ移民」を取り
れた大河小説の構想を練る、「積乱雲」と題名を考える、その資料収集に力
を尽くす。香港へ取材に出かけ、吐血、昭和50年、1975年5月11日死去。45歳

 だが結局、梶山季之という作家の真骨頂となると世間に与えているポルノ作家
というイメージ、「赤いダイヤ」の経済小説、「李朝残影」の朝鮮もの、性豪作家と
いう奇妙なイメージ、そのくせ純文学をもってr文学賞を渇望したという本音、純
文学作家とみればその作品群は弱い、佳作には違いないにせよ。

 一人の作家に与えられた時間などしょせん限られている。一度ポルノ小説を書
いて世間に大受けしたからといって、調子に乗って量産にはしったのは収入増には
なっても作家としては大きな失策であった。

 雑誌『噂』の創刊、しかしこれは大きな負担となった資金面でも製作面でも、まこ
都に貴重な内容満載である。だが基本的には赤字である、休刊となったことで安堵
したスタッフはおおかったという。

 広がりすぎる想像を超えた交際、何もかも広げ過ぎという感じである。生き急いだ
というべきか、美那江夫人は「50まで生きてくれたら」と思っていた持病の結核、だが
その健康不良の中で筆力は掛け値なしの素晴らしさ、であろう。ホテルのこもっての
連載の、複数の並行しての執筆、朝原稿をそのホテルの受付に渡して出る、それを
受け取っていたのが当時のそのホテル従業員だった森村誠一、その原稿を密かに
読んでいた森村は、まさに人間業ではないその筆力、執筆力に度肝を抜かれていた
という。

 およそ狭いワクには入り切らなかった梶山季之だが、その才能をある意味、浪費し
たといえないこともない。ポルノ小説は後世に残る可能性は低い。諸活動はこれま
た凄まじい、交際力から来る動員力、ポルノと言ってポルノで切り捨てられない、そ
子には文学性に満ちていた。

 『黒の試走車』は伝説的だが、産業スパイ物となった記念碑的な作品。種村季弘
がカッパノベルズ編集部に席をおいていた当時、梶山に執筆を依頼しての描き下ろ
しであった。この時梶山32歳、結核の再発の兆候があった、大事を取って入院した。
そこで新たな長編を書くことになった、新聞連載の『赤いダイヤ』である。依頼から二
日間で10回分をかきあげたという筆力、頭の良さは特筆である。同じ年の名作『朝は
死んでいた』保険金詐欺にまつわる犯人探し、松本清張、黒岩重吾らの他の社会推
理作家の台頭はあるが、梶山の作品は垢抜けていてカラッと明るい。

 広義のミステリー小説に於いて梶山の才能は際立っている。『影の凶器』、『のるか
そるか』、『夢の超特急』、また風俗小説の要素が濃い『女の警察』夜の世界や女性
の性を描いたときの梶山は素晴らしい筆力だった。さらに『悪人志願』、デビ・スカルノ
第三夫人をモデルとした『生贄』、発売直後訴えられて販売停止。『ぴらめんねぇ』、
『悪女の条件』短編『さっく一代』、・・・・サクという名前の女性がサックを売る歩くとい
う奇想天外な話。『せどり男爵数奇譚』


 『積乱雲』はなし得ずとも、梶山ワールドの広がりは驚くべきものがある。

 45歳で散った梶山季之、実は傑作を書きすぎるほど書いた、必ずしも純文学向き
とも思いにくいほど大衆作品に才能を発揮した。

 45歳は早すぎた死、かもしれないが十分だったという思いがする。


 

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