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zoom RSS 石上露子、・・・・・初恋に殉じ、一生を捧げた歌人

<<   作成日時 : 2018/02/24 20:49   >>

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  小板橋  ゆきずりのわが小板橋 しらしらと一枝のうばら
いづこより流れか寄りし 君まつと踏みし夕べに
いひしらず沁みて匂ひき

今はとて思いに病みて 君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば ああ、うばらあともとどめず
小板橋ひとりゆらめく

 これは「明星」1907年12月号に掲載された石上露子の作品、まことに
絶ち難い恋心を、切々と歌い上げた抒情詩、恋愛詩、いまなお多くの人
を惹き付けてやまない。

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 さて、この作者の石上露子は「明星」派の女性の歌人の中にあっても、
その美貌と家風から白菊に喩えられていたとは長谷川時雨が伝えてい
る。それは1918年発刊の「美人伝」においてである。

 その本名は、杉山孝子(戸籍はタカ)1882年6月11日、大阪の富田林の
大地主、杉山団郎の長女として生まれた。数え13歳の時、実母と生き別
れ、継母、継祖母とともに生きた少女時代は孤独であり、悩みは多く複雑
なものがあった。露子は心の慰めを文学に求めた。19歳の時、『婦女新聞
』や浪華婦人会の『婦人世界』に小説や随想などを投稿、1903年の秋から
新詩社の社友となり、その機関誌『明星』に短歌80首、美文5編、詩1編を
発表した。1907年の冬、乳の強い要望で婿養子をとった。翌年、文筆活動
を夫が禁じたため、新詩社を退社、その後は23年もの沈黙が続き、1931年
、『明星』の後継誌となる『冬柏』誌上で活動を再開した。晩年は不仲の夫
とは別居、長男は病死、次男が自殺という悲運に見舞われた。1959年10月
8日、脳出血で77歳でなくなった。1930年3月14日である。生涯独身であった


 露子もまた旧家の跡取り娘という立場に抵抗し、26歳まで独身であった。
だがそこから浮かび上がる姿は旧民法下、旧家族制度の下の家制度の
重圧に耐えて抵抗し、結局は屈した近代女性の矛盾に引き裂かれた姿で
あろう。

 端的に言えば石上露子の歌には与謝野晶子にみられる官能さ、華麗さ
は見られない。

 そこには寂寥感が漂い、楚々とした風格に満ちている。そのいかにも控え
目な表現は単に露子を「薄幸の女性」のイメージに置いておきたい人には、
それが人気にもなり得るであろう。意に染まぬ結婚を受け入れ、初恋に精神
を殉じた女性として。

 だが内面の葛藤、情熱を吐露する場合もあった。『平民新聞』を愛読し、近代
的な自我に目覚めていた彼女は夫に向かっても

 「いのちかけて恋ふるは御身ならず

 といい切る女性でもあった。

 2000年に評伝がでたりしたが、長く石上露子の人生は謎であった。その
全容が明らかになったのは戦後、松村緑によってである。

 「石上露子伝」〈『国語と国文学』1952年・7,『石上露子集』1959年、中央公
論、

 石上露子が詠った多くの歌は悲恋の切ない情がつきまとう、「小板橋」は
その代表であろう。その恋の対象が誰であったかについては松村緑論文を
引き継いだ松本和男が「初恋に捧げた一生、・・・・歌人・石上露子を慕い続
けた長田正平の足跡を追う」(日本経済新聞1985年8月27日)

 露子は18歳の時、高商の学生だった長田正平と出会った。旧家の跡取り
同士だった二人は、互いにその恋愛感情を告白もできず、正平は神戸の田
村商会に就職、1904年、もう日本に帰らない覚悟でカナダのバンクーバー
にある同社支店に向かった。加奈陀新聞記者を経て、大陸日本社に入社、
同社で同僚だった鈴木悦、・・・・・・田村俊子の恋人は、正平から「青年時代の
初恋に一生を殉じた」と聞かされたという。正平は同僚たちともあまり打ち解け
ることもなく孤高の生活に終止し、51歳でこの世を去った。




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