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zoom RSS 京大生・山崎博昭(1967年、羽田闘争で死亡)の現代的意義

<<   作成日時 : 2018/02/20 00:09   >>

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  多くの若者から理想が失われて久しい、だが高度成長期の若者は違った、命を
かけて戦争に反対し、権力に立ち向かった、今の風潮が権力の二号化した若者を
生み続けているのとは隔世の感である。1967年10月8日、午前、当時の佐藤栄作首
相は激化し、泥沼化していたベトナム戦争における米軍を支援のため、南ベトナム
訪問を組み入れたアジア・太平洋五カ国外遊ののため羽田空港から出発しようとし
ていた。

   
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 ここで佐藤首相南ベトナム訪問阻止を目指す当時の三派系全学連を中心とした
学生たちが数カ所から羽田空港への突入を図った。個々で機動隊と衝突、乱闘と
なった。ここで弁天橋上で三派系全学連約1000人が激しく機動隊と衝突、午前11時
過ぎに京都大学文学部学生1年の山崎博昭が死亡した。弁天橋は全長30m程度
、もはや現在その激闘の跡を残すものは何もない。もうこの衝突、学生運動の頂点
に向かおうとするこの時代、もう半世紀が過ぎてしまった。だが、決して今なお風化し
ないものが厳然と存在している。

 いかに現在が右傾化ファッショの時代であろうと、歴史の真実の意義は消え去る道
理はない。

 それにも大阪大手前高校を出て京大文学部に入ったばかりと云って良い山崎博昭
の鮮烈な死であった。山崎博昭の死はその後に続く学生運動の爆発の起爆剤となっ
た。翌月の「第二次羽田闘争」、1968年、佐世保でのエンプラ寄港阻止闘争、三里塚
空港建設阻止闘争、さらに1969年からの全国的な全学共闘会議を軸とする大学紛争
の嵐に向かうのでああった。まさしく山崎博昭、羽田闘争は激動の嵐の起爆剤となった
と言って何の過言でもない。

 高知県出身、大阪大手前高校から京都大文学部、その学生時代は短かった、が
「反戦のためなら命をかけて悔いはない」と兄に語っていたという。だがその一方で
繊細な面ものぞかせていた。「僕には勇気がないということは分かっています。弱い人
間なんです」

   今の若者は「社会主義は誤り」さらに「反戦運動は反日」、挙句に近隣民族の
ヘイトに走る。左翼は間違った思想、というある意味、教え込まれている。そこから
際限もない右傾化への道をひた走る。

 だが現実、あの当時1967年から状況が変わっているとはいい難い。ベトナム戦争
で苦汁をなめたアメリカも、その後、局地戦争を繰り返している。その最大の兵站基地
は日本である。世界の戦争に加担しないという国是を放棄して暴走は止まらない。

 山崎博昭の出身高校、大阪の大手前高校の卒業生たちが中心となり、2014年7月
、「10・8山崎博昭プロジェクト」が立ち上げられたという。その趣意書

 「私たちは、山崎博昭の死は戦争に反対した人間の死、としてだけ理解しています
。なぜ彼があの日、弁天橋の上にいたのか。戦争に反対する意思表示をするためで
す」

 「日本が徐々に戦争の道に向かいつつある現在、このプロジェクトは、山崎博昭の
名前とともに、私達が今も、これからも戦争に反対し続けるという意思表示でもありま
す」

 このプロジェクト発起人の一人である、山崎と高校で同期だった弁護士の辻恵元
衆議院議員は山崎本人との会話はなかったという、だが山崎は寡黙で成績優秀で
あり、すでに反戦運動に参加していたことは知っていたという。

 「作家の三田誠広や山崎などはマルクス主義の勉強会をやっていて、将来は官僚
になろうと東大をひたすら目指していた私などは単にガリ勉としか写らなかったでしょ
うね。それでも東大入学後、三派系全学連のデモの皆勤賞をもらえるくらいにはなりま
した」

 「秋になって、このまま学生運動をやっていたら官僚になるという夢はどうなるのか、
と不安に感じ、今後の行き先を考え直すため東北旅行に出かけることにしました。10
月7日夜に出発し、仙台で一泊して9日の朝、仙台駅で買った朝刊で山崎が殺された
と知り、衝撃を受けました。泣きながら誓いました、運動から後退するという選択肢な
どない、山崎の死を決して忘れないぞ、と」

 辻氏は大学に長期在学し、その後、弁護士となり、衆議院議員を二期つとめた。
東大闘争にに参加した友人、知人たちが十数人も自殺したという精神的苦しみ、
葛藤の中でも「10・8」闘争の山崎の死を忘れることはなかったという。

 「それは稚拙な点はあったでしょう、でも絶対にこれは許せないという全存在を賭け
た怒りこそが1967年10・8の戦いの真髄でした。それがあればこソ、あの強大な機動
隊に学生が立ち向かえたんです。その怒り、情熱は今の社会からなぜ消え去ってしま
ったのか、このままでは世の中が限りなく危険な方向に暴走してしまう」

 詩人の佐々木幹郎氏、

 「縁あって僕と辻くんがベトナムを訪れ、『戦争博物館』の女性館長にお会いできま
した。彼女は『日本でもベトナム戦争に反対した人たちがいたとは知っていましたが
、個々まで激しい闘争があって死者まで出していたとは全く知らず驚きました。ぜひ
ベトナムの若者に伝えたい」と感激していたという。

  ベトナム戦争証跡館の一階の特別企画室に展示された山崎死亡の羽田闘争の
資料

  
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 「浪人中でしたが、山崎が僕より先に死ぬなんてありえないと思っていた。その死後
、遺稿が発表され、僕が彼に伝え、僕にしか気づかれない言葉が使われていたこと。
大手前高校時代、反戦運動に彼を引き込んだのは私ですから。それから翌年、同志
社に入り、デモや闘争で機動隊と衝突を繰り返しました」

 このような情熱がなぜ消え去ってしまったのか、半世紀前、戦争に加担することを阻
止しようとして山崎博昭は橋を渡ろうとした。今、その橋がまた我々の眼前に存在して
いる。

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