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zoom RSS 東洋の魔女が東京五輪で落とした1セットの相手は?

<<   作成日時 : 2010/10/18 00:46   >>

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まず、東洋の魔女とは

 戦後、貧困と劣等感のあえぎ、海外遠征、まして実業団のチームがヨーロッパ
遠征など夢のような話の時代

 まだ女子でバレーボールなる球技を「本気」でやる国は少なかった。
国威発揚で共産圏諸国の一部、そして敗戦の劣等感でいっぱいの
繊維産業の女工さんでバレーボールがせめても慰みで、これを劣等感
克服に利用できないか・・・、というマイナースポーツだった。当時は。

 戦後の日本は繊維産業が中心で「東洋のマンチェスター(もう死語だが)」
と言われていた(日本だけで)大阪の貝塚市にあった日本紡績工場の女工
さんたちの楽しみとして本来始まった・・・、女子バレーボールチーム
昭和初期から創始されていた。

 そこへ「インパール作戦」からの奇蹟の生還を果たした「限界状況」人間に
なっていた大松博文が戦後の日本人の劣等感の解消のため、常軌を逸した
超過酷な強化をバレーボールチームに行った。多少、羽振りのまだよかった
日紡はヨーロッパ遠征を許可した

 ヨーロッパ人から見れば劣等民族にしか見ない存在の日本人、その女子
バレーボールチームの無敵さは・・・、とにかく「エタイの知れない驚き、不安」
を与えてしまった。

  東洋の「魔女」とは、まことに当時のヨーロッパ人の正直な気持ちを現す
もので「気持ちの悪い」存在であった証左としか言えない。日本なんて知らない
ヨーロッパ人も多かった。

 西洋人にとって「魔女」とは女性に対して、いかなる意味でも好ましい意味
合いはなく、最悪、最低の蔑称なのだ。

 「東洋の魔女」しょせん、日本人はそのていどにしか見られていなかった
のだ。

 とまあ、そんなわけで1961年の無敵の遠征の勢いで1962年のバレボール
女子選手権も制した。

 かくして東京五輪のプレッシャ。鍛え方において大松は気違いであり、独自
の「回転レシーブ」も駆使し、危なげなく勝ち続けた、と言いたいが実は1セット
落としている。

 近藤(倉敷紡績)渋井(ヤシカ)という2名は五輪メンバーに入っていたが
出番はなく、純粋に日紡貝塚チームで全て試合は行われた。だから東洋
の魔女、が落とした1セット、と言って間違いではない。

 その相手国は?どこにも出てないように思える。何か中だるみに感じもあった
試合でチェコスロバキア(まだ分離していなかった。なお東京の恋人と称された
女子体操の女王、ベラ・チャスラフスカはチェコ。まさに絶品名花だった)

 というわけであるが、大松はその後、電通に入社後、自民から参議院議員
に。「ママさんバレー」の創始者?となったのはご存知のとおり。

目的達成を機に「東洋の魔女=日紡貝塚」も徐々に解体していき、最後まで
残ったのは松村だった。
 やはり中心は河西昌枝(中村昌枝)。当時の日本人女性としては際立った
長身で抜群のリーダーシップもあった。
 河西に次ぐ存在と言えた半田百合子はすぐに結婚退職したが、ほどなく離婚。
「夫のあることが絶対に許せなかった」とのコメントで「絶対許せないこと」とは
一体、何なのだろうか?と話題を当時、さらったものだ。

 1978年大松は岡山県井原市で講演の予定、そこで逝去した。無理が蓄積
していた。57歳と言う(本当は)若さだったが、インパールからバレーボール
世界制覇、また参議院議員と消耗し尽くしていた。

 面白い、と言えば失礼だが「大松博文逝去の地」の記念碑が井原市にその後
建立されていること。別に見に行かなくてもいいけど、事実として書いておきます。


 なお画像は1962年の世界選手権優勝時(メンバーは日紡貝塚と同じ)と大松
が講演「予定」だった井原市民会館。
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