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zoom RSS 俳句同人誌「層雲」の思い出(唐沢柳三など)自由律俳句

<<   作成日時 : 2018/07/07 12:08   >>

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  まず「層雲」の概説:層雲」(そううん)は、自由律の俳誌。1911年4月、荻原井泉水の経営・編集で創刊[1]。尾崎放哉や種田山頭火を輩出・河東碧梧桐を擁する新傾向俳句の推進誌として出発し、大須賀乙字ら日本派の作家が参加[1]。井泉水は創刊号より「俳壇最近の傾向を論ず」を連載し新傾向俳句を擁護したが、1913年1月号から連載を開始した「昇る日を待つ間」では、俳句は「光の印象」と「力の印象」を「緊張した言葉と強いリズム」でとらえる「印象の詩」であると説き季題揚棄を宣言、無季を推奨しなかった碧梧桐はやがて本誌を去り、1915年3月に「海紅」を創刊した[2]。

 以後自由律の代表的俳誌として野村朱鱗洞、尾崎放哉、種田山頭火[3]、栗林一石路[4]、橋本夢道[5]、松尾あつゆき[6]らを輩出。戦中の1944年に「俳句日本」に統合されたが、1946年6月に復刊。1976年に井泉水が死去したのちは伊藤完吾の編集により続刊していたが[1]、北田傀子が2001年に離脱、2002年に「草原」を立ち上げ、伊藤も2002年に「層雲自由律」(当初は「層雲通信」)を発行し独立、また2014年には放哉研究家の小山貴子が「青穂」を創刊、独立している

 以上はwikiの簡略な説明である。説明はこれだけでややシンプルすぎる気
がしないでもない。その後期の主要メンバーであった唐沢柳三氏がその回顧
を雑誌「彷書月刊)2005年6月号で行っているものが掲載されている。


 ・・・・・私が旧制中学生だった昭和八、九年ころに私は自由律俳句の存在を知りました
。そのころ上田市の書店には『層雲』がおいてありました。私が直接に層雲社から雑誌
『層雲』を購入するようになったのは昭和十年の四月からです。つまり、『層雲』の誌友と
なったのです。それから現在に至るまで私は『層雲』を読み続けてまいりました。そして
私は『層雲』五百記念号(昭和30年5月1日発行)に唐沢柳三編の「層雲年表」を発表しま
した。この年表を作るために私は『層雲』の全ての号を手にとって読んでみました。

 『層雲』の信州の大先輩の吉沢氏から多くの『層雲』のバックナンバーをいただきました。
私の『層雲年表』の作成の大恩人はこの人でした。だが、吉沢氏からいただいた『層雲』に
も欠陥があり、なお多くの先輩達の助けをいただきました。数号だけはどうしても入手でき
ず、それは先輩に見せていただきました。その後、この年表を掲載した記念号が発行され
てもう五十年になります。今年の『層雲』四月号(第93巻第4号)は通巻で第1098号になって
います。私の作成した年表を頼りに『層雲』の歴史を綴っていきます。


   『層雲』は1911年(明治44年)の4月に刊行されました。荻綿井泉水が私財を投じて
創刊したもので、編集・発行人でした。俳句だけの雑誌ではなく、ドイツ文学を主に外
国文学の翻訳、紹介も行っていました。私の年表には1915年、大正4年の欄には次のよ
うに記載されています。

  この年、「海紅」が創刊され、碧悟道の一門、『層雲』を去る。

 このようなこともあって、これ以後は『層雲』で育った人々が特に活躍するようになっ
た。長い歴史の中で『層雲』は二度、終刊を出しています。その一回目は昭和19年の
4月号で、戦局の緊迫化、悪化のためでした。ただし4月号といってもそれ自体の出版
が遅れてしまい、出来上がったのは6月でした。戦後『層雲』は復刊し、二回目の終刊
は1992年の8月号でした。ところがその後、またまた復刊し現在も続いております。

1911年に創刊ですから百年もあとわずかで達成されます。したがって多くの人がこの
雑誌から輩出されました。その『層雲』のは偉人を列挙すべきでしょう。

 まず『層雲」を創刊し、長年の多くの門下を育ててきた荻原井泉水と、世間的に非常
に有名になった尾崎放哉と種田山頭火を挙げねばならないでしょう。

 だがこの三人について詳しく述べる余裕はありません。ただ、この三人の句を思い
浮かぶままに二句ずつ挙げることにしましょう。

  荻原井泉水

 たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く

 月光しみじみとこおろぎ雌を抱くなり

  尾崎放哉

 咳をしても一人

 春の山のうしろから烟が出だした

  種田山頭火

 分け入っても分け入っても青い山

 柳ちるそこから乞ひはじめる

 この三人はどなたでも『層雲』の俳人として挙げるでしょう。だが、その次に誰か、
となると大いに迷います。私は年表を創ったくらいですから資料は豊富に持って
おります。ただ今は座右に数冊置いてあるだけです。

 その一冊、上田都史・永田龍太郎編  『自由律俳句作品史(永田書房、昭和54
年)を眺めておりましたら松尾あつゆきの句が目にとまりました。これらは、あつゆき
の句集『原爆句抄』からのものです。

  すべなし地に置けば子にむらがる蝿

  炎天、子のいまわの水をさがしゆく

  原爆を落とした天へ頭垂れて祈る人たち

  わが悲しみのゆえに木の葉一まい落ちた

  山萩しずかなり施設は原爆孤老を収容す

  おのれ葬りたりしわが悲しみ風化する前

 松尾あつゆきは本名、敦之、長崎での被爆により、妻と三人の子供を失った。学徒
動員中の娘は重傷を負った。

 ここで私は私の主観を避けるため日本近代文学館編『日本近代文学大辞典』机上
版に載っている『層雲』の人たちを並べます。ただし初期にだけ句や文章を寄稿し、
その後は別の道を歩いた、例えば詩人の村野四郎などは除きます。

  青木此君楼、秋山秋紅蓼、池原魚眠洞、伊沢元美、井出逸郎、内島北朗、瓜生
敏一、大越吾亦紅、大橋裸木、大山澄太、荻原井泉水、尾崎放哉、小沢武二、唐沢
隆三、木村緑平、栗林一石路、近藤益雄、種田山頭火、野村朱鱗洞、橋本夢道


  詩人の村野四郎を除くなら、精神薄弱児の教育や綴方教育などで活躍した
近藤益雄も除くべきという意見もあるかもしれませんが、また『日本金だ文学大事典』
は分厚いので見落とした名前もあろうかと思います。唐沢隆三を除けという意見も
当然あるでしょう。机上版になくても実はすぐれた俳人はいるでしょうし。

 何だ『層雲』には女性の俳人がいないのかと言う人もいるでしょう。多くおります。
今もおりますが、私の好みで一人だけ二句

  塚田虹子


 はるけき人を思へば静かなる蛍の明滅

 きびのほがおもたいふるさとをあとにする

 
  まだまだ挙げたい『層雲』のは偉人は多いんです。七戸黙徒、河本緑石、海藤
抱壷など、さらに数十人はいます。

 『自由律俳句作品史』から

 木村緑平

 雀が巣に入ったみんなだまってゐろよ

 唐辛しにうまれあわせたので赤うなる

 栗林一石路

  死ぬ日近きに弟よ銭のこといえり

  アリランかなし春の夜のわれも囚われ人


   橋本夢道

 大戦起こるこの日のために獄をたまわる

 妻よ五十年吾と面白かったと言いなさい

  
   海藤抱壷

 日に日に薬の紙を手にして三羽の鶴

 クリストの齢なるこそ女に触れぬ我身こそ

 
 私の『層雲年表』では昭和16年2月のところで栗林一石路、橋本夢道、神代藤平
、横山林が二等検挙さる、とあります。みんな『層雲』で育ったプロレタリア俳人で
す。

 現在の『層雲』の発行人は渡野辺朴愁、編集人は鶴田育久、いまは同人制となり
、同人は五句ずつ自選で発表しています。比較的、句歴野浅い人が選を受けています。

 毎年『層雲大会』なるものが、昨年は横浜市中区の「ナビオス横浜」で、ことしは長野
県湯田中渋温泉郷で、ここの湯本旅館は一茶ゆかりの旅館です。この地に一茶・井泉
水記念資料館があります。井泉水は一茶を顕彰します。

 今は井泉水を見たこともない人が多く育っています。かっての俳人の多くはほとんど
鬼籍にはいってしまいました。


  2004年5月16日ナビオス横浜で開催された「層雲全国大会」記念撮影


  
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