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zoom RSS 松尾邦之助〈フランス通新聞人、文化人〉ジャン・コクトーと語る

<<   作成日時 : 2018/07/11 06:39   >>

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 まずは松尾邦之助という人物、東京外語のフランス語科を出ての読売新聞
記者としてのパリ駐在、ナチス占領後はスペインに、戦後帰国、「巴里物語」
なる著作で知られている。単に新聞人を超えた文化人であるが、多くのキャリ
アは新聞人で費やされた。今となればやや忘れられた新聞人、文化人という
べきだが、いかにも東京外語をらしいメディア系列に入り、業績を上げたという
今にも通じるキャリアではある。戦前、読売新聞のパリ駐在であり、多くの著名
人とのインタビュウを実現している。

 ただwikiの説明を読むだけでも理解は出来ないのであり、やや深い人物説明
を述べると、・・・・・

 元東京新聞の渡部泰夫氏によるものであるが、

   松尾については、日仏交流や彼独自への思想などへの評価が高いが、私
はぶれない考えを貫き、常に権力に相対した新聞記者としての松尾を評価し、
尊敬もしている。アナーキストであったかどうかは、私にとってはどうでもいいこと
だ。私は四十年以上、新聞社にいたが、松尾のようなジャーナリストは見たことが
ない。

  松尾は外見からは想像もできないほどの勉強家、努力家であった。『無頼記者
・・・・』に出てくる難解な字や表現を、松尾の愛用の辞書で調べてみると、赤線を
引かれた跡があった。手元にある自伝小説『情熱のイサベル』びは鉛筆の書き込
みがある。出版を終えた後も、なお綿密に推敲を重ねるという、文章への飽くなき
執念を感じさせる。

  東京外語のフランス語科を出て、意気揚々とパリに乗り込んだ松尾であったが
、生のフランス語はさっぱり理解できず聞き取れずノイローゼ気味になった。恋人
のセシル・ランジェーの助けがあったにせよ、瞬く間に市井のフランス語を修得、仏
文の雑誌『ルヴェ・フランコ・ニッポンヌ(日仏評論)』を出版し、アンドレ・ジイドやロマ
ン・ローランとさしで話すまでになるが、そこにいたるには並々ならぬ努力があった
はずである。パリにいて、パリに浸るのみで受動的な日本人が多い中、日本の文化
を直に紹介した稀有の人物が松尾である。

 父危篤の報で一時帰国したとき、偶然に電車の中で出会った読売新聞文芸部長
の清水弥太郎氏の依頼で、ジイド会見を手始めに「巴里文芸通信」を送るようにな
った。これがきっかけで辻潤の後を継いで読売新聞パリ文芸特置員となり、ジャーナ
リストの道に入った。

 松尾には二つの幸運があった。戦時中の日本にいなかったこと、もうひとつは戦後
帰国して安田庄司氏(副社長)の知遇を得たことである。

 1941年5月、読売本社からの訓電で帰国することになったが、途中立ち寄ったベ
ルリンで一晩飲み明かしたらその間にドイツ軍のソ連侵攻が開始され、ソ連・ポーラ
ンド国境が閉鎖された。そのため予定していたシベリア鉄道には乗れず、ヨーロッパ
に足止めされた。

 日本はヨーロッパ通の松尾を、内閣情報局が、何か国策機関で働かせる腹積も
りであったようだが、帰国しなかったため節を曲げての国家に従属の働きからは
免れた。また松尾は戦後のヨーロッパをつぶさに見て歩いた。敗戦後のフランスの
食糧事情、燃料不足、ドイツに迎合し、すりよる人々、米英軍によるドイツの爆撃の
徹底さ、爆弾投下量はB29による日本空襲の10倍近くに及んだ。中立国スペイン
でのフランコ・ファシスト政権による人民弾圧、すべて国という絶対権力が勝手な
行動を起こしては民衆がその被害をこうむることをいやがうえにも体験した。これを
日本に投影し、国家の悪を憎むようになった。「アナーキスト的」と近藤日出造に言
われるほどの思想の形成がなされた。

 戦後は帰国後、読売新聞論説責任者、副主筆となった。安田氏に可愛がられた。
ナベツネが回顧録で「安田さんが特に信頼していたのが、当時、副主筆であった
松尾さんだった」となる、安田氏は自民党の1955年の「結党宣言」を書いている。
「アナーキストの松尾には任せられない」という社内の反発を安田氏は「アナーキス
トでなければジャーナリストの資格はない」と切り捨てた。

 戦後の日本の自由な雰囲気は徐々に逆コース、反動的となり、右傾化が顕著
になった1957年1月12日の日記で「安田副社長が正力派から圧迫されて言論の
自由が失われつつある現状を嘆く」とある。松尾も居心地が悪くなった。安田氏
も心労が重なり、その一ヵ月後、急逝した。松尾にとって大きな痛手となった。

 1957年、定年退職で読売を去る松尾は

 「この11月16日から、本来の私の仕事をはじめ、この退社を終着駅とせず。新た
な地平線に向かいます」

 と書いている。二十数年の新聞社での姿は仮の姿であったのか、組織の人間
として妥協的にならざるを得ず、後年は特に苦渋があったはずだ。パリ苦闘時代の
原点に回帰し、日仏の交流活動を行うという強い気持ちの表れであったろう。


ジャン・コクトオと語る    1931年4月26日  読売新聞夕刊
 


                           在パリ読売新聞  文芸特置員

    松尾邦之助

  山田耕作氏は、モンマルトルのホテルで「明け烏」の作曲に夢中になっている為
「コクトオに逢いましょう」というと飛び出してきたのである。

   
画像


 巴里の中央、マドレーヌ寺院の近くにヴィニュン街九番が、彼氏コクトオの家だ。
勿論、ブルジョワ街である。

 女中が案内してくれるままに、コクトオの書斎に這入って待つ。山田氏は和服で
戸口に近く悠々と席に着く。阿片の香りがプンと流れてくる。白い現代装飾のランプ
が同じく白木の机の上に置かれて、アパジェールの下にスポットライトのような現代
的な白い影が投げられている。阿片中毒を描いた彼のデッサンが白い影を浴びてい
る。

 コクトオが現れる。耕作氏を紹介すると、山田氏の5月下旬にピカール座で出す
日本オペラ「明烏」(改題して、あやめ)にすっかり興味を感じたらしく、委細の質問
を始めた。コクトオは痩せぎすの身体に薄い水色の絹の支那服めいた上っぱり
を着て、日本のお祭りの若い衆のように手拭のような布片を首に結び付けている。
彼の才気ばしった双の瞳が微笑む。

 コクトオは静かに、朗らかな声で「山田さんのオペラの劇場は?・・・・・・ピカール
座ですか,それは素晴らしい、舞台装置は?・・・・・日本人がやる、・・・・・その方が
いい、・・・・・・勇敢に日本式でやられることを希望します」

 コクトオは続けて「僕たちの時代は、と云うより現代の青年は、既にスチリゼ(様式
化した)、云いかえると表象化したものに見向きもしなくなっています新しいドラマチッ
クなものを探しつつ、何か『力』のあるもの、強い、険しい、刺激のあるヴィオランス
を求めます。外面世界のレアリスムには既に審理が必要なんです」

 コクトオは、日本の現代劇の傾向を訊ねた。・・・・・・日本の不景気を語り、そのモ
ダン風景を語ると、「そりゃ面白い、日本は活きている。ところで今、君はモダンとい
われたが、この仏語のモデルンヌは、フランスでは過去の言葉です。1912年頃から
1925年にかけての時代につけた言葉です。現在そのモデルンヌの何ものも存在し
ません」  

  そこで筆者(松尾)が「先日オーザンファレンやレジェーもよくその点を説明してい
ました。1912年頃からとおっしゃると、立体派の旗揚げ時代です。キュービズムの
20年記念祭をやるという噂もありますが」

 コクトオ「そうです、立体派時代からです。ピカソやキリコの最近の作品をご覧にな
ったでしょうか?・・・・・あれはモデルンヌの域を脱した何ものか、です。大きな不可
解な『力』をもっています。次の時代が必ずこの二人の仕事の説明と精算をします。
大部分の現代人は、新しいもののみを探求します。何か耳を驚かすもの、眼に新し
いもの、・・・・・・先日もパリの百貨店の主人がやってきて、私に室内装飾をやって壁
に何か描きつけてくれというので、『どんな画でもいいですか?自分勝手でよければ
快諾します』とこたえました。・・・・・主人が『何でもいい』といいますので『じゃ、血みど
ろの女を描き、目も当てられるような、エロチックな情景に終始しても良いでしょうか?
』と訊ねたら『それは賛成です、あなたの名前で広告しますから・・・・』と大喜びでした
。これは突飛を好む現代の様相です。掃き溜め行きの芸術はこの方向で進むのです
。芸術は急速力で待ちに落ちること、・・・・・・その速力に比例してその芸術的生命を
短縮させます。芸術のポスター化は芸術の冥土行きですよ」

 そこで「この速力文明、今いわれた実用価値と芸術の握手についてポール・ヴァレ
リーは大の悲観論者ですが」と聞くと

 「僕はその点では楽観論者です、なぜかというと、この速力は一方につまらぬ芸術
を早く世に押し出す、同時に早くそれを葬り去り、埋没させるからです。現代は悦ぶ
べきテンポでの精錬時代です、ピュリフィカシオン(純粋化)の時代です。この時代の
合言葉、速力は悪いものを一掃していきます。フランス式の言い方では下水行きと
云うのですが。この下水行きの芸術は儚いものです。この現代的旋風は、頑丈な
大木のような作品だけを残してくれます。この急速な精錬期はイタリアのルネサンスと
共通しています。僕が日本やロシアやアメリカに興味を持つ理由はここに発していま
す」

  山田耕作の神秘論が始まり、コクトオは「稲荷大明神」の額を持ち出してそのご
利益の説明を求めた。神秘論から猥談に這入り、山田さんはますます得意、コクトオ
は歌麿のエロ画を持ち出して、ここに日本的誇りがあるという。

 最後にコクトオは

 「これからの科学は東洋人が千年も前に悟ったものの再検討にうつるでしょう。
自然なノルマルな現象の探索時代は去り、現代人が全く想像もしない領域に入って
います。その意味で西洋人は、東洋から訓を得なければなりません。ポアンカレ
の家に居るある女は右の手で野菜をつかむとその野菜がしおれ、左手を出すとその
野菜が生き生きとよみがえります、不思議な現象でしょう、こんな非説明的な現象が
無限に僕たちを取り巻いているのです」


  

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