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zoom RSS 大室寅之祐はなぜ明治天皇になった「防長における南朝の系譜」を読む

<<   作成日時 : 2018/07/09 18:02   >>

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「裏切られた三人の天皇」鹿島fはその増補版において郷土史家の松重正
氏の論文を巻末に加えている。明治維新、その後の日本の歴史は、この実は
南朝革命であった、明治天皇がすり替わったという歴史的事実を抜きにして語
ることは出来ないはずである。北朝系とされる孝明天皇の「子供」が明治天皇に
なって足利尊氏は逆賊、南朝についた武将、楠正成は皇居近くに銅像まで建っ
た。正当なのは南朝、と明治政府それ以降は言い続けた、では、・・・・?となる
と説明がつかない、「万世一系」といって南北朝を見ただけで天皇は並立してい
るではないか、以後、北朝系の天皇が続いて明治になった南朝が正統、万世
一系、近代憲法にまで書き加えたではないか、誰が見えも万世多系であることは
明らかであるのに、南北だけを見ても矛盾である。南朝革命が明治維新の実質
であった。だが南朝に変わった、と喉元まででかかっていえず、逆に姑息な隠蔽
を行い続けた。

 大室寅之祐はなぜ、いかにして明治天皇になったか、これは増補版の松重正
氏の「防長における南朝の系譜」を読めばわかる、だが古本でもその数は限ら
れている。一部抜粋で読み解くことも意義があるはずである。


     防長における南朝の系譜部分

 〈大内義弘は鎌倉の足利氏満、美濃の土岐詮直、丹波の山名時清らと約して
東西に一時兵を挙げようとした。たまたま氏満が病没し、土岐、山名両氏の挙兵
も失敗したが、義弘は応永六年、1399年の冬、泉州堺城によって独力で挙兵した
。だが頼みの和泉・紀伊の地侍たちが挙兵しなかったために幕府の大軍に敗れ
て、12月21日、44才を持って戦死した(応永の乱)

  この時、堺城に籠城していた九十七代後村上天皇の皇子で兵部卿の師成
親王(50歳位)と吉野朝大統宮系列の四代松良天皇の皇子・光長親王(18歳位)
が足利義満と和睦して防長二国を安堵してもらった弘茂(義弘の弟)に釣れられ
て周防に亡命した。

   光良親王は玖珂郡余田保の地頭・曽我兄弟とともに楊井津(柳井市)で下船
し、一旦は曽我氏の休漁熊毛郡別府に落ち着いたが、やがてその隣村の麻郷(お
ごう)郷の大室に館を構えて永住することになった。

 光良親王は姓を大室と改めて善入寺領の庄主となり、石城山の神域を守って
その皇統を連綿と伝えていったが、伝えられるべき系図も行方が知れずに成っ
た。

 しかい応永年間より460年後の明治維新の時、長州藩の中忍・吉田松陰らは
大室家の存在をはっきり認識しており、大室弥兵衛の長男、寅之祐、1851年生
まれ、を南朝革命の「玉」として世に出すため、早くから伊藤俊輔(博文)にその
傅役を命じていたことから考えると、維新の頃には大室家には数多くの古文書が
存在していたと考えられる。

 慶応元年1865年、イギリス公使パークスから「新たな天皇のもとで薩長政府を
つくれ」とはっぱをかけられた西郷は、急遽、薩摩軍の近代化を進めると共に、
長州藩の中忍・高杉晋作らと協議して、奇兵隊などの諸隊を最新式の銃や大砲
で武装化する作業にとりかかった。そのため麻里布の大室家を度々訪ねた西郷
は、伊藤の紹介で大室家の由来や「玉」の真偽を確認し得たのである。

 慶応二年、1866年1月、木戸孝允らとの間に結ばれた薩長同盟第一の条件は
、北朝系の天皇を廃して南朝系の天皇に変えるというものであった。佐幕攘夷
一辺倒で長州征伐と攘夷のみ主張の孝明天皇は速やかに暗殺し、その皇子
、睦仁親王も殺害始末して、そのかわりに大室寅之祐を皇位に就けるという
作戦であった。

 岩倉具視、中山忠能、大原重徳ら公卿衆の支持を取り付けた薩長同盟は
、同年1866年12月25日、孝明天皇を暗殺し、引き続いて翌年1867年、睦仁
親王をも毒殺に成功した。薩摩藩邸で待機していた大室寅之祐をただちに
宮中に招き入れて睦仁天皇に変身させ、御側衆や女官たちを武力で籠絡して
いった。こうして「玉」を手中にした薩長同盟は、錦の御旗を掲げて倒幕に驀進
した。

 慶応4年、1868年9月8日、明治と改元して、この変身天皇、大室寅之祐は遂
に明治天皇となった。こうして日本の第七王朝として続いていた足利系の北朝
の孝明天皇の血統は断絶した。第八王朝、光良親王の後裔の仰向と寅之祐に
よる明治新王朝が誕生したのである〉

  『明治維新の生贄』において最初の章「伊藤博文の秘密」宮崎鉄雄

 「私は父である渡部平左衛門章綱から孝明天皇が刺殺されたことの次第を
教えられ、この事実を天下に明らかにするよう遺命を受けたものである」

 「大室寅之祐が睦仁にすり替わって明治天皇となったのは維新の革命家なら
だれでもし知っていたことである。だが国民の殆どは知らない。『忠節なる臣民』
とか『赤子』などとおだてられ。犬かぶたのように戦争にとことん酷使され、鉄砲
玉となってあの戦争の犠牲になった国民の殆どは、明治、大正、昭和と続いた
奇妙な教育のため、自ら考えることの出来ない理性を失ったロボットとなった。
だが1866年12月25日の孝明天皇の暗殺は紛れもない事実である。北朝という
系統の消滅であった。またつづいて睦仁の毒殺は易々と行われた。内部の者
だけがこれを知り、国民は睦仁とすりかわった大室寅之祐を明治天皇として神棚
に飾って拝んだのである」



   こうして明治天皇となった大室寅之祐は明治新政府の意向に沿う理想
の玉となったが、それは宮中の私生活の乱脈を招く大きなストレスになったの
も事実である。


     
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