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zoom RSS 「不断経」斉藤茂吉(昭和15年)

<<   作成日時 : 2018/07/01 08:37   >>

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  この「不断経」斉藤茂吉はある古書関連雑誌で紹介されていたので、そこでも
書かれているのだが「不断ならこんな本は誰も絶対に読まないだろう」なわけであ
るが、結構,面白い内容も含まれてはいる。アマゾンで購入可能だし、他の古書サ
イトでも可能である。

 「不断経」は「治乱興亡には一切関係のない、学問技術にも関係がない、諷論ひ
とつない。教訓ひとつない」という類の茂吉のエッセイを集めたものである。

 内容自体はとりあえず、紹介にあったとおりで、

 「不断!ならまず読まなかっただろう斉藤茂吉の本のページをめくらせたのは、中
ほどに挿入された『初代ぽん太こと鹿島ヱ津子』の写真の引力、ヴェールを被った
かのような薄紙が貼られ、その奥に着物姿の上半身像がしまわれていた」

   
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 ひとえに、「ぽん太」の魅力がこのエッセイの魅力なのだが、その関連は、茂吉が
浅草三筋町で過ごした当時の記憶を述べた「三筋町界隈」、最初は「文藝春秋」の
昭和12年1月号に掲載されたもの。その地には養父、斉藤紀一の病院があったので
ある。

 高等小学校を出たばかりの茂吉が山形から父に連れられて養父の家にやってき
たのは明治29年、1896年(明治〜年というのを西暦に直す時は1867に明示の年号
を足せばよい、余談ですけど)14歳の時であった。

 「三筋町界隈」での茂吉の「春機は目覚めかかっていて未だ目覚めてはいなかっ
た」茂吉が「浅草三筋町に於いて春機発動期に入」って、胸がドキドキ、ウットリと
覗き見た世界がいたって柄にもなく淡いタッチで描かれている。

 鹿島ヱ津子、ぽん太のみならず何人かの女性の姿と思い出がそこに幻影のように
舞い踊る。

 その冒頭エッセイは「砂がき婆さん」なんて書くと、「砂かけばばあ」みたいだが、こち
らの方が先である。

 「この砂がき婆さんが一目眇(すがめ)の小さな「あそびめ」であったが、五、六種の
色の粉末を袋に持っていて人だかりの前で、祐天和尚だの、信田の森だの、安珍清
姫だのを物語しながら上下左右自在に絵を描いてゆく」

 砂がき婆さんがいたのは、浅草観音の境内、

 「白狐などは白い粉で尾のあたりから描いて、赤い舌なども一寸見せ、、しまいに
黒い粉で眼を点ずる、不動明王の背負う火焔などは、真紅な粉で盛り上げながら描
く」

 茂吉少年はそのあまりの鮮やかさに、「観世音に詣づる毎にその場を立ち去りかね
ていた」という。

 浅草三筋町は今はどの辺り?地下鉄の浅草線蔵前駅から北へ少し入ったあたり。
「砂がき婆さん」などの浅草奥山の大道芸人たちのねぐらがあったという阿部川町は
どのあたり?地図の名称からは消滅、現在の菊屋橋交差点近く、正覚寺裏の一角の
ようだ。そこで茂吉少年が過ごしたかっての浅草三筋町と、ほんの隣り合わせである。

   
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 砂がき婆さんは私には何かラフカディオ・ハーンの「果心居士」の大道芸を想起させ
る。その回想からやがてぽん太のブロマイドを浅草仲見世で眺めた追憶へとつながる
。このエッセイ発表の前年、昭和11年、茂吉は彼女、ぽん太だが、その墓地を多摩墓
地内で探し当てたようである。

 墓は多摩墓地第二区八側五十番種。夫・鹿島清兵衛は慶応二年生。死亡大正十二
年十月十日、病名〜、ぽん太こと鹿島ヱ津子は明治十三年十一月二十日生まれ、死
亡大正十四年四月二十二日、病名肝臓腫瘍

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