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zoom RSS 沖縄戦で戦死したビハリ・ボース(中村屋)の長男

<<   作成日時 : 2018/06/21 11:14   >>

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新宿中村屋の相馬黒光、その長女の俊子が日本に亡命中のラス・ビハリ・
ボースと結婚したのが1918年、大正7年、仲介は頭山満。イギリスのスパイの
眼をかいくぐるため何度も転居、その中での長男の出産であった。1920年夏
に出産、正秀、8月13日であった。相馬黒光のその孫の追悼集『摩文仁の石』
(1953年)は復員船で帰国した人々の声を「ラジオの前に目を閉じて耳を傾け、
私共はこれを聞くのです」で始まっている。「けれども自分が待つ者は帰ってこ
ない。生死のほども不明である。誠に遺家族の心のうちは闇であります」と続く

  黒光の遺稿集『滴水録』昭和31年、1956年2月から

 「幸い知人の産婆で秘密を守ってくれる人があって、安産であっった。・・・・・
狭い家でのお産の間、ボースをどこにのかせたらいいのか。ただ間の襖を
閉め切り、お産が済んで始めて襖を開き、男子出生をボースに告げた」」

 ボースを知って以来、インド人の皮膚には、金色の仏神像のような不思議な
一種の光が沈潜していることを見抜いていた。

 「生まれたのはやがてそれがどんな色白に変わるのかと思わせるほど、、
本当の赤子で、端正な顔のどこかに父の骨格を秘めている、美しい子であっ
た。

 やが第一次大戦も終わり、ボースもイギリスからのスパイに追われることか
ら解放されたが、本国への帰国は叶わなかった。やむなく、1923年、大正12年
、日本に帰化、相馬家には入籍せずあらたに防須家を創設となった。犬怪毅
の命名であった。

 関東大震災でも中村屋は被災を免れた。防須家も新居を定めた直後、俊子が
発病、1925年3月永眠した。こうして母を失った長男の正秀、妹・哲子は祖父母
の手元で育てられた。

  追悼集『摩文仁の石』は「防須正秀戦死覚書」と添え書きがある。

 「早稲田自動車部員」、「曹長時代」の数葉の写真と沖縄の戦跡スケッチがグラ
ビアとして載せられている。

 スケッチを描いたのは防須少尉の伝令であった田中義徳氏、

 終戦後6年後の1951年9月、心当たりを訪ね、遺族の住所を知った田中氏は、
復員した北海道十勝から当時の状況を克明に手紙で知らせてきた。

 
 「・・・・・戦闘が終わりに近づいて少尉殿と、煙草のケースと日の丸に寄せ書き
をして、お互いに交換しあっったわけです。・・・米軍捕虜になったとき、私の持ち
物として取り上げられてしまいました。‥・・・遺品といたしましては何も持っては
おりませんが、最後は摩文仁というとこおr,当時は屍と血の海でした、捕虜で
作業中、遺品に代わるようなものを遺族にお届けしたいと思い、波に洗われたる
小石をニ、三拾って、どうにか隠して持って帰りました」

 その小石が正秀さんんお遺骨代わりに届けられた、それが表紙となっっている。

   妹の哲子と父のラス・ビハリ・ボースに囲まれて

 
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  早稲田学生時代、自動車部員、

 
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