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zoom RSS 第二次日米交換船の帰国後の人間模様

<<   作成日時 : 2018/06/17 20:06   >>

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  日本と連合国との全面戦争勃発で彼の地に取り残された移民を除く日本人、
逆に日本に取り残された英米を中心とする連合国側の人々を全くの第三者的な
場所において交換し、帰国させるという結局、二回行われた日米交換船。第一次
で帰国した日本人の中に留学生の鶴見俊輔さんがいたのはある意味、有名な話
ではある。ものの本には「1942年6月、卒論『ウィリアム・ジェームスのプラグマティ
ズム』が受理され、捕虜交換船に乗って帰国の途につく」とある。

 鶴見俊輔が第一次交換船で帰国した日本側の乗船の船は「浅間丸」、これにつ
いては鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創著『日米交換船』(新潮社)が2006年に出版さ
れている。

   
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 ハーバード大学の日本人留学生だった鶴見俊輔と、第一次交換船の日本側の
乗客たちは、1942年6月18日、スエーデン船籍のグリップスホルム号(第二次交換
船もこれと同じ)でニューヨークを出港、大西洋を横断し、ポルトガル領東アフリカ
のロレンソ・マルケソで浅間丸とコンテ・ヴェルデ号に分乗、横浜港に到着したのは
8月20日だったという。

 帰国したらいかなる運命が待ち受けていたのか?

 その翌朝、8月21日、朝日新聞記事では上陸した「引き揚げ邦人」は1400名中、
約500余名、は横浜から東京に向かうと

 「三々五々まづとるものもとりあえず、球場二重橋前へ、祖国に帰還の最敬礼を
行った」

 とある。留学生だった鶴見俊輔は21日、「麻生区役所に出向き、その年最後の
徴兵検査にまにあう」と知らされ、その4日後に徴兵検査を受け、「第二種乙種合格」
となったそうだ。

 で、「第二次交換船」これは昭和19年2月前田書房から出版された『第二次交換船
・帝亜丸の報告』青木ヒサ著に詳しい。

 その帝亜丸の横浜入港は1943年11月14日、もはや日本劣勢がはっきりしていた時
期であった。

 翌日の朝日新聞見出しには「戦列に第一歩」。第一次と同様にまず「宮城奉拝」を
行った1299名中の約900名。

 「海外同胞中央訓成所に入所の78名を始め、三々五々二重橋前に至り、宮城を奉拝
、戦ふ祖国の感激を新たにした」

 横浜に上陸した帰還者数は1299名だが、到着前、外務省から発表された「交換邦人」
の数は1511名だった。その内訳は「米国から554名、ペルーより482名、パナマより159名
、ブラジルより89名、チリより80名、カナダより61名・・・・・まど」他に船上で誕生した女の
子が一人、死亡者が一人。日本に宣戦布告しなかったアルゼンチンからも6名が乗船し
た。

 この人数の差は「ご奉公」のため、昭南、シンガポール、あるいはマニラに向かうため
下船した200名余がいたからである。

 有賀千代吉氏はシンガポールで「誰でもいいから降りてきて、日本のために尽くしてく
れ」と言われ、下船して市役所で英語の通訳、妻は孤児院の院長に就任、戦後、引き揚
げた。

 本の著者んも青木ヒサさんの戦後はどうであったか、1956年に出版された『悲しみは
海のかなた』には自身のことはほとんど書かれていない。ただしこの時点での肩書きは
「カリフォルニア州毎日新聞客員」とあり、アメリカ在住時代の仕事に復帰していたと思
われる。

 この本の内容は戦後のことで日本からアメリカにわたった戦争花嫁のレポート。

 「玉の輿に乗ったシンデレラになったような気持ちで、米兵と結婚し、戦後渡米した
日本女性は1万数千人に及んでいます」が実情を「加洲毎日新聞」で連載し、「若い
日本の娘さんの反省の糧」とし編集したという。

 「花嫁達はあまりにむごい現実に落胆するであろう」

 と書いているそうだ。アメリカでの現実は厳しいのである。戦前の熾烈な排日運動
、戦時中の強制収容、悲惨な日本人の歴史がある。

 青木ヒサさんには非売品であるが『茨ある白道』昭和27年がある。

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