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zoom RSS 伊藤人誉「室生犀星とわたし」、幻の純文学作家の懐古

<<   作成日時 : 2018/06/13 10:39   >>

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 純文学作家、伊藤人誉(いとうひとよ)の著作はかなり前に全て入手不可能の状態
である。だが、2008年に書いた「室生犀星とわたし」という雑誌掲載の文章がある、
なにせ出版されない作家だけにこの文章でも貴重だと思われる。古書でもその作品は
もはや全く入手不可能である。「わたしの先生」というシリーズの中の一回であり、犀星
が師であったということだろうか。今となれば幻の作家というしかないし、wikiもない。

   室生犀星とわたし

  わたしが室生犀星のところへ原稿を持ち込んだのは、昭和十五年の年の暮れだっ
た。
 
 芥川(龍之介)賞の予選はもう終わっていて、二、三篇の候補作が残っているきりだ
った。日支事変の最中で、雑誌はどれも情けないほど薄っぺらだった。

  犀星は芥川賞の選考委員だった。犀星が文藝春秋に電話して、わたしの原稿のこと
を話すと、犀星が推薦するなら、予選は通さなくていいという話になった。

 本選は、翌年の年明け早々に始まることになっていて、それまでに審査員の全員が、
すべての候補作を読んでいなければならない。

 審査委員はわたしの記憶では六名で、犀星のほかに横光利一、川端康成、瀧井孝作
、宇野浩二、菊池寛が入っていた。
 
 わたしの原稿は、手書きのものがひとつだけで、それを全員が読むには時間が足りな
かった。文藝春秋社では、わたしの原稿をゲラ刷りにして、六名全員に配ると約束した。
だが、それを忘れてしまった。

 新年なって、犀星が文藝春秋社に電話をしたときは、もう遅すぎて、どうにもならなか
った。仕方がなく、手書きの原稿を審査委員全員に、順々に回すことになったが、全員
に回りきらないうちに、審査の日が来てしまった。

 横光利一と川端康成は、わたしの原稿を支持するといってくれたが、瀧井孝作は支持
しなかった。しかし、宇野浩二と、殊に肝心な菊池寛が読んでいなかった。菊池寛の発
言は、とくに力が強くて、菊池寛が推薦すると、いつもその人が受賞した。

 「わしにはどうも面白くない。いちど、いたずらがしてみたいと思っていたんだ。君の原
稿をわしに貸さんか。芥川賞に出してみる気はないか」

 気がないどころか、わたしは芥川賞をとりたくてたまらなかった。

 当時無名の新人が純文学で世に出るには、芥川賞を取る以外に方法がなかった。
三島由紀夫も太宰治も、芥川賞を狙っていたが、なぜかふたりとも受賞できなかった。

 わたしの場合は原稿を読んでいない審査委員がいるというので、選考の対象から
外されてしまった。

 正月になって犀星からその話を聞かされたわたしは、ひどくがっかりした。

 だが、それからニ、三日経って、犀星から手紙が来た。
ー人誉よ、失望するなかれ、別途自ら開かれつつあり、と書いてあった。

 あとになって分かったことだが、っ文藝春秋社では犀星の顔を立てて、芥川賞は
出さない代わりに、雑誌に載せることを約束した。

 昭和十六年の五月号に、やっとわたしの小説が『文學界』に掲載された。文學界
はわたしの小説のほかに、みじかい連載物を一篇載せているきりだった。

 当時は軍部の干渉がきびしくて、「時局にふさわしいもの」以外は、雑誌に載らなか
った。

 民主主義を匂わせるものなど、もってのほかだった。作家は高齢以外は、一人残ら
ず、満州や支那へ連れて行かれた。

 そのことを知っていた、わたしが部屋を借りていた家の女hスジンは、芥川賞を取らな
くてかえってよかったんじゃない、ちょいってわたしを慰めてくれた。

 そのとおりで、受賞していたら間違いなく従軍作家として、満州か支那へ送られてい
たが、その途中で輸送船が、アメリカの潜水艦の魚雷で沈められることもあった。さい
わい、わたしは内地に残って、まもなく結婚した。

 犀星が病身で、ひとりでは動くことも出来ない夫人の体を心配して、軽井沢に疎開
するとき、わたしは留守宅に入ってもらえないかという話があった。

 当時、わたしは大塚駅に近い西巣鴨に住んでいたが、そこよりは大森駅から三十分
もはなれた馬込の方が安全だと判断して、即座に馬込に移ることに決めた。戦争が終
わるまでわたしは馬込に住んでいた。

   南馬込の自宅での犀星

 
画像



  室生犀星の家は何の変哲もない長方形の家で、その中央に玄関がついている。

 外の道路からでは内部は見えないが、石段を一段あがると、かなり奥の方までのぞ
くことが出来る。

 門は黒ずんだ低い木の門で、おなじように黒ずんだ木の門柱に、室生とかいた表札
がうちつけてある。

 表札も門柱も同じくらい黒ずんでいる。「室生」の字がかろうじて見えるくらいだ。問扉
もつりあいがとれるくらいに、黒ずんでいる。門柱に、スイスで牛の首にぶらさげるカウ
ベルが付いている。

 はじめての来客は、このベルを鳴らすと、長女の室生朝子が、門扉の後ろまで出てく
る。

 犀星は午前中は、奥の間で原稿を書いているので、、客には会わないことにしている。
はじめての客がそのことを知らずに訪れると、長女の朝子が、門のところで訳を話して
帰ってもらっている。

 わたしが犀星の家をあずかることになったのは、日支事変のときで、米軍の空襲が
烈しくなり、東京にも米機が飛来するようになった時だった。

 わたしは山手線の大塚駅に近い西巣鴨に住んでいた。犀星に呼ばれて馬込の家を
訪ねてみると、犀星は、自分では動くことも困難なとみ子夫人を、軽井沢の別荘に避難
させるので、留守になる馬込の家に入ってもらえないかという話だった。

 西巣鴨は馬込に比べると遥かに、焼かれる危険がたかかった。それでわたしは、その
場で承諾の旨を伝えた。

 馬込は大森駅から三十分もはなれており、建っている家も一軒一軒が、隣と少し離れ
ていた。犀星の家の隣は、慶応大学の教授で、反対側は低い崖で、そこに大きな寺が
建っていた。

 
 

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