つぶやき館

アクセスカウンタ

zoom RSS ラグーザお玉(日本最初の女性洋画家)を知ってますか?

<<   作成日時 : 2018/06/09 11:32   >>

トラックバック 0 / コメント 0

 特別興味を持っているとか東京での展示会を見に行った、なんて人なら或る程度
、ご存知だろうが一般的にはあまり知られているともいえない。だが関連する本も
何冊か出ていて有名ともいえないが歴史的には著名人である。大雑把に言えば
明治の初め頃、工部美術学校のお雇い外国人のラグーザと結婚し、イタリアに渡り
、長く滞在し、夫の死後、帰国してひっそり暮らし、東京の片隅で亡くなった、という
ことだろうか。元の日本名は清原玉、結婚してイタリアに渡ってエレオノーラ・ラグーザ
、である。ともかく木村毅編「ラグーザお玉自叙伝」は必読である。

 日本で最初の女流洋画家という位置づけであるが、1882年、とかなり早い時期に
21歳でイタリアに渡って1933年、昭和8年に帰国するまでいくつかの万博、美術展に
出品し、入選したといわれるが、およそそれが日本で評価された形跡はない。最初の
女性洋画家以上の位置づけが見当たらないに等しい。

 清原玉は1861年、江戸の芝新堀で父が清原定吾の次女として生まれた。父は
増上寺の差配であった。江戸時代はもとより維新後も経済的には恵まれていた。
玉は幼くしてすでに絵画を好んでいた。小学校に上がる前から小林英州という画家
について絵を学んでいた。当時彼女によって描かれた絵には浮世絵の模写などが
あり、江戸時代からの絵の修行としての模写が主な稽古であったと分かる。

 かくして多摩は絵の好きな少女として成長するが1877年、ある日父親が芝山内で
経営する花園を一人の外国人が訪れた、そこで玉の描いた絵に目を留めた。そこで
自ら絵筆をとって西洋画法を見せた。その外国人とは工部美術学校彫刻部で教えて
いたイタリア人のヴィンツェン・ラグーザその人であった。1841年のラグーザはその時
、36歳、パレルモの生まれ。1872年、全イタリア美術展覧会で最高賞を受賞、1875年
、日本派遣お選抜競技会に参加し、選ばれた。1876年9月に来日、・・・・・・。

 玉は最初、初めて接する西洋画法に違和感を覚えて、何か真面目に學ぶ気に
なれなかった。

 「何と云われても日本の花鳥より外に書く気は些かもなかったので、ラグーザが
西洋画法を教えられ、時々西洋草花を書きましたが、厭厭ですから碌なものが出
来るはずはなかったのです」

 しかしラグーザは諦めることもなく珍しい西洋の草花を持って訪れては、それを
描くことを望んだ。日本画の手法では梅なら梅を描く確立された手法があり、それ
をいかに忠実に行うかだったが見知らぬ草花には通用しない。そこでは対象を凝視
しての工夫が要求される。ここから徐々にお玉は西洋画の写実を学んでいった。

 1882年、玉は姉千代夫婦とともに、工部美術学校との契約を終えてイタリアに
帰国するラグーザに同行した。ラグーザは、ルネッサンスという栄光の歴史を持ち
ながら衰退したイタリア美術の再興を図るための美術学校を故郷のパレルモに
創設することを考えていた。そこで日本の絵画工芸を教えてほしいと千代夫妻に
頼んだのである。自叙伝では玉はパレルモに到着後パレルモ大学美術専攻科に
入学し、ロ・フォルテに裸体デッサンの指導を受けて本格的に油画の勉強を始め
た。パレルモでは玉の作品は人気で描けば売れたという。玉は画業での生活を
ここから覚えていった。それは日本の花鳥画が多かっった。珍しがられて需要が
多かった。

 ラグーザ創設の工芸学校は当初はラグーザの市立だったが後にパレルモの
市立となった。さらに高等工芸学校となった。玉はここで美術教師を勤め、副校長
にまでなっている。

 1904年ラグーザは玉と正式に結婚した。エレオノラ・ラグーザを名乗ることとな
った。玉は多くの秀作をものにした、大作「小鳥」(1893年全イタリア博覧会美術
部門金賞受賞)、カルウソウ伯爵家ノイラによる同家の天井壁画「天楽礼賛」は
その代表とされる。ただしこれらは地震で失われている。1910年代「トスカ」、「
山羊の乳搾り」、「春」といった作風にも通じる物語性を持つ。

  
画像


  
画像

 
  これらはフランス印象派の趣があるが、ここにはかっての冷徹な写実性
は見られず、む白現実から離れた夢見るような優美な世界が展開されている。

 「日本の娘たち」、「思い出の日本娘」という追想的な作品もその延長線上にあ
る。

 その生活の詳細は定かではないが、これらの作品を描いた50年間、玉はパレル
モを拠点に安定した地位位を保っていたと思われる。日本人とはほとんど没交渉
に近かった。したがって玉の画業が日本に知られることもなかった。

 だが70歳を超えて帰国したkとはまた画業の大きな転換となった、1933年に帰国
した。

 「私のようになると・・・・・静かなもの、平和なもの、自ら楽しみながら筆にして、明
日にも来るかもしれない死を待っていたいのです」

  と既に野心的制作や大作への意欲はないが、身辺の花や果実などの静物画
、身近な風景などを描いた。パレルモでは想像的な絵画世界が構築されてもいた
が、帰国後の作風は50年前の渡欧以前の目の前のものを虚心に描く風情だ。
空想や追想ももはや見られない。ふたつの異なる文化の往来の経験が内面に
深化をもたらしたのかもしれない。

 玉は自らの作画について晩年次のように述べている

 「私がどんなふうに絵の修業をしたかか、絵についてどんな考えを持っているか、
そういうことを率直に、飾りげなく申し上げたいと思います。理想というようなむつ
香椎言葉が不似合いなほど、簡単な原則です。まず絵は美しくなければならない
というこおt,次には表現法の簡潔です。それから個性の尊重ということ、これは
前に申し上げたとおりです。私は三つの考えを絵の理想として、こればかりは、主
人がんと言おうと譲歩したり、妥協はいたしません」

 玉の絵を少女趣味とか、上流階級の嗜好品といおうとも、芸術的価値には何の
関係もないことである。あの時代一人の女性が日本をさり、身も心もどっぷりと
イタリアにつかって、半世紀、日本から完全に離れ、懸命な創作活動を行ったとい
うこと、これは戦前の画壇でもひときわ異色である。22歳でイタリアに、73歳で日本
に帰国、西洋人の男性と日本人女性が結ばれて深い愛の中、続々と作品を生み
出した、こういう例は他に見られない。その絵筆は限りなく優しい、何を描こうと、そ
レは夢見心地の中で生まれている。

 

月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
ラグーザお玉(日本最初の女性洋画家)を知ってますか? つぶやき館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる