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zoom RSS 最後の「文藝春秋」(昭和21年3月、4月合併号)

<<   作成日時 : 2018/06/06 11:03   >>

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戦前から続いてきた「文藝春秋」は1946年、昭和21年の3月、4月合併号
をもって一旦、廃刊となった。今手元ある終戦間もない、物資不足の如実な
薄っぺらで小さな「文藝春秋」、内容は長與善郎「天皇制」、マント事件の因
縁の佐野學「国民的動機と統一戦線」、小堀杏奴「高原の春」、大悟法利雄
「若山健海のこと」、今日出海「マニラの町」などエッセイは武者小路実篤、
神近市子など、・・・・また菊池寛が最後の言葉として「其心記」など

 終戦直後、一度は廃刊となった「文藝春秋」その歴史を振り返ると

 論文、文芸、エッセイなどを広く掲載収録した総合雑誌は実は日本独特な
出版物である。それは明治から今日まで数多く出版されもしたが、その多くが
高邁で難解な内容から消えていった。

 多くの総合雑誌が消えたのは、簡単なことをわざわざ難しく書く悪い意味で
の難解さに堕したためである。巻頭論文は特に難解という定評があった。読
者はせいぜい三人と揶揄されもした。この読者を軽視した唯我独尊的な総合
雑誌のあり方に真っ向から反対してできたのが「文藝春秋」であった。

 「文壇の大御所」などと云う、とんでもい名を奉られていた菊池寛の始めた
雑誌であったが、当初は文壇のゴシップ記事という色彩が強かった。表紙に
目次を並べ、巻頭から四段組で随筆を載せて読みやすい誌面とした。もった
いぶった難解な巻頭論文に閉口していた読者の支持を集めた。

 菊池寛も最初はいつまで続けられるのやら、自信もなくその気構えもなかっ
た。創刊号の「編集後記」で菊池寛は「もとより気まぐれで出した雑誌だから
、何ら定見もない。原稿が集まらなくなったら来月にも廃するかもしれない」

 ともかく文壇のゴシップ記事でスタートし、短期間で文芸雑誌から総合雑誌
に変化した。だが戦争の激化で末期に総合雑誌の整理が命じられ、文芸雑誌
に戻るよう指定された。菊池寛はこの指定は予想外で怒りをぶちまけている。

 菊池寛は(文藝春秋」の成功により、「文学者としての私がどれだけの価値あ
る人間かは、後世の批判をまつしかない」と述べる一方で「雑誌経営者として
は確かに成功した」と自負している。

 昭和12年新年号には「15周年に際して」で「文藝春秋」の功績は「第一にあら
ゆる方面の社会人にものを書くことを始めさせたこと」、「第二は座談会の創始。
多くの権威を一同に集めて、短時間に意見なり思想なりを発表してもらう便法
の発案」座談会という言葉は「文藝春秋」で始めて用いられたのだ。

 「文藝春秋」の創刊号は発行部数3000部であった。わずか3日デ売り切れた。
一ヶ月後の浅草の古本屋で15倍の値段がついていた。

 その文藝春秋も昭和21年3月、4月合併号を持って廃刊となった。その心境を
その最後の「文藝春秋」で菊池寛は綴っている。


 其心記     菊池寛


 文藝春秋社も、今回解散することになった。主な理由は経営が困難であるから
だ。本社は数百頁の雑誌を四五十万部出す機構である。が現在はわずか32頁
の雑誌を数万部しか出せない。将来も何の見通しもない。本社が多年培った信用
も。数十万の読者も紙がなければ何の足しにもならない。闇の神を買い漁って、経
営を続けるような興味もないし、またそういう才能のある者もいない。元来が出版
企業ではない。機構を縮小して月数千円の経営でやればやれないことはないが、
今更そんな整理もやりたくない。

 戦争中も、出版事業はいろいろ干渉を受けて相当の難行苦行であった。

 戦争中、出版で儲けたなんて人は特殊であろう。・・・・・・

 戦争中、出版事業をどうにか続けようと努力した者がヒドイ目にあい、戦争中
、軍需産業などで儲けて、うまく紙を買い占めたものが戦後の出版事業で栄えて
いるのである。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「文藝春秋」の誌名も、この際社とともに、解消したいのであるが、社員だけで
やりたいと云う希望があるので其の連中に譲ることとした。機構を縮小してやれば
、やれると思う。大方諸君の支援を望む。しかし自分はもう関係しないつもりだ。

 
 

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