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zoom RSS 「婉という女」野中婉の宿毛での幽閉40年とその後の医師開業

<<   作成日時 : 2018/05/29 12:19   >>

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大原富枝の「婉という女」、父の野中兼山の失脚後、その男系が途絶えるまでと
いうことで長く宿毛に幽閉された野中婉の作品である。1944年、あえて東京に出てい
た大原富枝が帰省し、高知県立図書館に保存されていた野中婉の手紙を見せてもら
って書き写した、それを丹念に読み解いての小説である。その手紙もその後の空襲で
焼失してしまったという。「婉という女」はいうまでもなく著名な小説であり、いまさら申
し述べることもないが、最近エッセイストの酒井順子さんの山陽新聞に連載「歴史の中
の女」で野中婉が取り上げられて興味深い記事、写真があったので思いつくままに。
日本初の女医という歴史的意義はまた大きい。

 高知県は東西に長い県である。ただでさえ僻地的、陸の孤島的な性格が強いのに、
その西端ともなるとあまりの不便さ、寂しさに、訪問した大原富枝さんも絶句したくらい
である。その侘びしすぎて不便すぎる宿毛の城下町に、住居敷地内という厳しい幽閉
を長く強いられた野中婉、幽閉を解かれてからの日本女性初の医師としての活躍。
幽閉中の谷泰三との文通がそこで活きた。

 酒井順子さんの「歴史の中の女たち」、野中婉の回(山陽新聞2018年4月23日)を部分
ですが引用させていただくと

 ーーーーーーーー

 高知は東西に長い県です。高知城がある高知市より、「かって野中兼山の遺族たちは
、どのような思いでこの道程を進んだことかと」思いつつ車に揺られること・三時間半、県
の西端の宿毛市にやっと到着しました。

 土佐藩の名奉行であった、兼山。しかし反対勢力の藩内重臣らの反発を買って失脚し
、その死後、兼山の正妻の生地である宿毛に幽閉されました。その期間は実に40年。

 宿毛歴史館の矢木伸欣館長が最初の案内してくださったのは、中心地から少し離れた
山際の地です。いまは田畑になっていますが、この場所に「野中兼山屋敷という古い地名
が残っているそうです。高知出身の大原富枝は、この地を舞台にして、兼山の四女を主人
公とした「婉という女」という小説を書きました。

  
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 その後、実際にの幽閉の地は、現在の宿毛小学校の敷地内であったとわかったそうで
す。が、大原富枝にとっての「幽閉」という言葉のイメージに叶う土地はこの山際の土地
でなかったかと思われます。

 4歳で幽閉された婉は、竹矢来で囲まれた屋敷の中から一歩も出ることは許されず、
40年を過ごしました。外界との接触は禁じられていましたから、儒学や医学を今で言う
通信教育で学んだのです。

 40代でやっと自由の身になった婉は、他の姉妹たちが宿毛に残ったのですが、彼女
1人で高知に出て医師として働きます。それは遅いスターであったのですが、残された
人生を誰かのために役立てたかったのではと思います。

 そんな婉に大原富枝は自らを重ね合わせたのかもしれません。大原富枝は若い頃、
結核のため10年間も高知で療養生活を送りました。その中から文筆活動を始めました
。病に囚われるつらさを長い幽閉を強いられた婉に合い通じるものがあったと思われ
ます。

 宿毛から高知に戻った私は筆山の中腹に立つ、野中一族の墓を訪れました。兼山
の墓を中心に数基が立つうち四基は婉が建立したといいます。

 今は家族とともに、筆山から高知を眺めているであろう、婉、決して希望を捨てず
、自らの使命を全うした一生でした。

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