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zoom RSS 増穂残口の恋愛至上主義

<<   作成日時 : 2018/05/19 13:00   >>

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まず増穂残口とはその概略の説明

 ますほのこぐち【増穂残口】
1655‐1742(明暦1‐寛保2)
江戸前期の神道家。十寸穂耶馬台(ますほやまと)または増穂最中とも称した。豊後の人。京都に出て通俗的な神道講談を行い,男女の愛情を主とし,神道理論の形で庶民的家族道徳を主張,当時の儒教的家族道徳を排した。著書に《艶道通鑑》(遊里に関する書)を含む〈残口(ざんこう)八部書〉がある。その一つ《神路手引草》は《日本思想大系》所収。【平 重道】

 没年:寛保2.9.26(1742.10.24)
生年:明暦1(1655)
江戸中期の神道家。本姓は竹中氏というが,諱,通称など不明。諸国流浪中は待暁翁,似功斎と号した。増穂(十寸穂),残口などは還俗後の称。臼杵の松岡(大分市)に生まれる。若くして浄土僧となり,のち日蓮宗に改宗,江戸に出て谷中感応寺(のち天王寺。東京都台東区)に身を寄せていたが,元禄年間(1688〜1703),幕府の不受不施派禁制によって寺籍を離れた。のち諸国を流浪,神道家に転向し,正徳5(1715)年61歳で還俗し,『艶道通鑑』を出版。以後,享保4(1719)年までの4年間に『異理和理合鏡』『神路手引草』など7部の著述を刊行。儒教,仏教を退け,古道再帰,神道思想復興を主張したが,日常卑近な話題を用いてわかりやすくかみくだいた表現であるところが喜ばれた。世に残口流と称せられ,以後に流行する談義本に強い影響を与えた。享保4年京都吉田家に入門,のち五条の朝日神明社の神主となった。『神代巻』の校訂刊行といった純粋な学問的業績もある。没後も人気は衰えることなく,寛延2(1749)年には江戸中村座の顔見世芝居「御能太平記」に神道講釈師残口として登場した。<参考文献>中野三敏「増穂残口伝(上)」(近世文学史研究の会編『近世中期文学の研究』),同「増穂残口伝(下)」(『文学研究』73号)
(白石良夫)


 ところで増穂残口を「恋愛至上主義」と説明している事典の類もあるがこれは
あの家永三郎氏の説である。硬派とみられ、国を相手に長く裁判を行い続けた
家永三郎氏だが、反面がある。どうみても傑出した歴史思想家である家永氏は
例えば『歴史家の見た日本文化』において「江戸芸術における日本的倒錯美」
とか「戒具の歴史」などなにか裏街道的な通常アカデミックの視点からは論じら
れにくい世界を大いに論じている。

 「アカデミックな歴史学者が取り上げようとしたことのないテーマを敢て進んで
取り上げることにより、アカデミズム史学の目の及ばなかった盲点を埋めようと
いう試みに外ならない」と家永氏自身は述べているが、それだけではなく、家永
氏はある種の民衆に潜む色の道に興味と関心があったと思われる。

 家永三郎氏は戦後間もない頃、増穂残口の紹介の論文、「増穂残口の思想」
を書いた。この論文でわかるのは家永三郎氏が増穂残口を一種の恋愛至上主
義と見做していたことである。

 「礼第一と親子中心の倫理を排して和第一と夫婦中心主義を掲げた増穂残口
の倫理体系に於いて、この二つの基本的主張が結合する時、ここに恋愛至上主
義という見解が成立したのである。すなわち礼よりも和と云う原理に則るならば、
夫婦の結合お当然真実の親和の情けに基づかねばならぬ筈であり、従って異性
間の親和の情である恋愛こそ人倫至高の倫理感情とせられざるを得ないわけで
ある」

 増穂残口の概略は冒頭の紹介引用にあるが、関山和夫の「仏教と民間芸能」
によると

 「江戸時代の中期から工期にかけては、真宗(一向宗)の説教が、いわゆる節談
説教として盛んに行われていた。日蓮宗(法華宗)の説教もすこぶる盛んで『くり
弁』などという講釈調の高座説教が行われていた。説教浄瑠璃も各地で行われて
ていた。その時期に僧形でありながら、しきりに坊主のあり方を批判したり、僧侶
から講釈師に転じるものが多数表れたのも説教と講釈の関係を考える上で無視
できない。

 神道講釈書の『艶道通鑑』(1715年、正徳5年)を出した増穂残口は、60歳近く
まで日蓮宗の説教僧であったのに、儒教に転じ、やがて神道に入ったという精神
面では不安定な人物であったが、最後は神主儒仏従の三教一致思想を説いた」

 増穂残口は63歳以降は増穂、最仲、大和などと名乗った。

 1716年から1719年までさらに七種類の著述を刊行し、合わせて「残口八部書」と
称し、神道講釈の種本とした。その中の代表とされる『艶道通鑑』の序文で樗散人
は「狂者無双ノ残口翁」と評している。また本書の論議体の文章は、残口流として
、のちに流行の談義本の文体に大きな影響を与えた。これは平賀源内の「憤激と
自棄ないまぜの文章」という平賀ぶりの文体の直接の母体となった、とされる。

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