つぶやき館

アクセスカウンタ

zoom RSS 今こそ中江兆民、その新聞人、論説人としての足跡

<<   作成日時 : 2018/05/18 10:54   >>

トラックバック 0 / コメント 0

 
画像
俗に日本のルソーとも称される中江兆民、本質的には論壇人であった。政治家
にもなったがしょせん性に合わない。大日本帝国憲法発布、世は憲法を賜るとば
かりに浮かれている、発表されたその内容を見て兆民、「一読、苦笑するのみ」で
あった。近代人としての最低限の常識が備わっていれば当然の反応であろう。だ
が、司馬史観みたいな歪んだ偏見で近代日本はスタートし、いまなおその歪みが
是正されない。

 中江兆民の本質は啓蒙思想家とは思えども、同時に現実の政治の二足の草鞋
であった。このギクシャク感、政治家としてはうまくいかなかった。1874年フランス
から帰国し、仏蘭西学舎、後の仏学塾を創立した。翌年には大久保政権への
クーデターを内容に含む提言書を左大臣の島津久光に出している。ここから啓蒙
思想家と政治という二足の草鞋が始まった。以後は著書の出版、新聞への寄稿、
あるいは主筆としての執筆活動で活躍した。だが仏学塾は経営不振を極めた、私
立学校生徒が徴兵免除から除外された措置も影響した。塾の閉鎖は兆民を困窮に
陥れた。大隈重信に生活の窮状を訴える書簡を送ったくらいである。その二ヶ月
前に『三酔客経綸問答』を出版、だがさして売れなかったようだ。

 政治家へとくになりたいとも思えない。政治への情熱はあっても。だが総選挙で
大阪四区から定員2名で堂々トップ当選を果たした。二位の当選者の二倍位以上
の得票数で。だがあまり嬉しそうでもはなかった。あくまで周囲に押されての出馬
であった。1887年末、保安条例で東京を追放になった、その後『大阪東雲新聞』での
論壇活動は兆民への支持を大いに広めた。選挙権、被選挙権は直接国税15円以
上納付が条件だった。生活に窮していた兆民にそれが可能であったはずはない。
支持者たちの代納であった。まったく選挙運動もせず当選した。同じ大阪四区で
朝日新聞社長の村山龍平が立候補していたが兆民の得票数のいち割にも満たな
い惨敗であった。兆民の論壇活動がいかに精彩に富んでいたかである。

 ◎ 兆民の関わった新聞、論壇活動、年代順に


 1.東洋自由新聞

 1881年、明治14年3月18日、仏蘭西から帰国の西園寺公望が社長となり、中江
兆民を主筆として創刊された特色ある民権新聞。松田正久、松沢求策、上条信次
、林正明、柏田盛文などが西園寺を助けて執筆した。自由民権論を展開し、容赦な
く政府批判を加え、これに対して政府は勅令で持って西園寺を退社させ、同年4月
30日、第34号をもって廃刊に追い込んだ。

 2.自由新聞これは第一次

 政党活動が活発化すると新聞の政党機関紙化も進み、帝政党は『東京日日新聞』
、「明治日報』、『東洋新報』、改進党が『郵便報知新聞』、『東京横浜毎日新聞』などを
手中におさめたが、自由党はまったく新聞がなく、板垣退助が明治15年、1882年に
創刊した。兆民は馬場辰猪、田口卯吉、末広鉄腸らとともに論説委員となった。翌年
くらいまで執筆していたようである。

 3.東雲新聞

 憲法発布と国会開設をひかえて、大阪でも政党新聞が発刊された。その一つに
明治21年、1888年1月15日創刊の『東雲新聞』があった。自由党の寺田寛、戸田猛
らによって計画され、元『自由新聞』の記者、植木枝盛、栗原良一、宮崎夢柳、江口
三省らも入社、兆民も招かれて主筆となった。これが大阪での兆民、総選挙での当
選の最大の要因となった。

 論説や紀行文、批評、ケレン味のない政権批判などを執筆した兆民は名声を高め、
同紙の地位を著しく向上させた。明治22年には憲法発布、大赦令で兆民も東京に帰
ることができた。

 4.政論

 自由党、改進党の両党の有志によって反政府主義を標榜していた後藤象二郎は
明治21年、1888年から機関紙『政論』を発行。大阪から帰った兆民は主筆となった。
明治22年7月に同紙を日刊としたが、明治23年1890年6月1日には『大同新聞』と改名。

 5.自由新聞 第二次

 立憲自由党に袂からざる土佐派の板垣退助など自由党の一派が明治23年、1890
年10月20日に創刊。兆民も招かれて論説を執筆、馬場辰猪、田口卯吉、末広鉄腸
なども。この時期、兆民は自由、立憲自由の両紙に執筆していた。さらに12月13日に
大井憲太郎の創刊の『あづま新聞』にも客員で執筆。

 6.立憲自由新聞

 その前身の『江湖新聞』は明治23年、1890年2月11日、三宅雄二郎等によって創刊
されていた。立憲自由党は機関紙を必要として、経営不振の江湖を買収した。翌年の
1月1日から『立憲自由新聞』と改名、兆民は主筆となった。数ある自由党系新聞で特
に硬派で知られ、注目されたが5月には経営悪化、6月1日から『民権新聞』と名称変更
、これも短命に終わった。

 北門新聞

 自由主義を標榜し、明治24年、1891年4月21日に小樽で創刊された。『北海道毎日
新聞』のライバル的存在であった。兆民を主筆に招いて発行部数を増やした。翌年
札幌の大火で北海道毎日が社屋喪失、その機に乗じて北門は札幌に本社を移した
。この頃兆民は社長も無視しての独断専行が多く、一年たらずで兆民は退社した。

 北海道での兆民は紙問屋、山林業をいとなんだが全て失敗し、明治25年に東京に
戻った。

 8.千代田毎夕

 明治34年か1月1日から「毎夕新聞」と改名、された『千代田毎夕』、警視庁主事の
川田正音と野城久吉の創刊、兆民は主筆に招かれた。明治34年3月まで兆民最後の
新聞論壇生活となった。約70本の論説を執筆。

 政治や実業に手を出しても兆民はやはり文筆の人であった。20年間でも8っつもの
新聞を渡り歩いている。しかも主筆待遇である。兆民が卓越した思想家、論壇人であ
ったかであることの証明である。

 兆民は多量の飲酒によると思われる喉頭がんを発病し、明治34年に余命一年半
と宣告された。その後、遺稿ともいえる『一年半』を執筆、博文館から出版された。
地方紙にまで及び各新聞はそれに絶賛の書評を掲載した。更に病苦と戦い、『続一
年半』を出版、12月13日、小石川の自宅で逝去した。享年55歳であった。余命一年半
もなく9ヶ月であった。


 

 

月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
今こそ中江兆民、その新聞人、論説人としての足跡 つぶやき館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる