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zoom RSS 近代天皇制の最も崇高な生贄は金子文子?

<<   作成日時 : 2018/05/14 11:23   >>

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明治まで、まず大和朝廷も含めて民衆が天皇を理由に命を奪われることなど
あり得なかった。その後は京都にいる公家勢力として名目的存在であった。別
に封建時代に憲法などあったわけでなし、「天皇制」とは無縁の存在であった。
天皇制とは結局、明治以降のものである。だが大日本帝国憲法は近代化の始
まりの憲法にしては世界史的にも例のない異様なものとなった。大和朝廷のま
とめた神話を国家原理としたことである。明治政府は教育制度を最大の国民の
教化手段として活用し、天孫降臨などの政治神話の徹底教化を行い続けた。
更に本来は密室の皇室祭祀が大きく拡充されて祝祭日制度の創設と結びつい
て、これが「国家神道」の本質的要素となった。国体論は江戸時代からあるにせ
よ、それが現実に具現化されるのは近代諸制度、すなわち教育制度、皇室祭祀
とも関連した祝祭日制度、軍事的性格を天皇に与えた軍国主義化である。また
治安警察法などの警察法規で正統神話への批判はもとより、客観的な学問研究
すら厳禁とされ、宗教もその教義が正統神話、国家による解釈に背くと思われた
ものは呵責ない弾圧が行われた。治安維持法も制定されて後は。例えば俳句研
究団体、あげくは小学校の綴方教室まで治安維持法の目が光る大正とされた多く
の人が検挙拘束されたのである。最も国家神道にすり寄った宗教団体であった
「ひとのみち教団」も天照大神を「太陽神」としたことで不敬罪に問われ、厳しい拷問
を含む弾圧を受けた。

 換骨奪胎とはよくいわれるが、明治創設の制度、概念を絶対的な「伝統」として
回帰を図る戦後の右翼保守勢力の一貫した「換骨奪胎」の絶対化こそが戦後に続
く国家神道の流れである。明治時代まで、まったく存在しなかったもの、本質的には
すべてのものに神を認める多神教の神道から伊勢神宮を本宗とする疑似一神教の
創宗、全ての神社の疑似一神教体制への再編成、天皇の一代一元制、君が代、
日の丸、皇室祭祀の大規模拡大、それに符合された祝祭日の創設、これらこそ絶
対の伝統として戦後の右翼が回帰、あるいは護持しようとするものである。すなわち
明治の狂気こそが日本の右翼、ファシズムの本質である。

 かくも民衆には苦難の明治からの近代天皇制の冷凍庫のような日本であったが
、そこにはマラ日本の歴史上、例もない天皇制への数知れない生贄が捧げられた
。この時代が日本の民衆にいかに辛苦の地獄であったか、民衆は戦争に駆り出さ
れないはずが戦争国家の道をしゃにむに暴走したためにその犠牲は数知れなか
った。

 広義に考えれば戦争も天皇制への生贄であろう、その国家原理からすれば、だ
が狭義の治安警察法的視点による生贄は、・・・・・数知れないが、金子文子とい
う一人の女性を上げるべきだと考える。

 山田昭次著の『金子文子ー自己・天皇制国家・朝鮮人』(1996年」のあとがきに
こう書かれている

 「私が文子に惹かれた最大の理由は、彼女が朝鮮人の苦しみの解放に向けて
の闘いにタテマエでなく、心の底から共感したことである。文子にそれが可能で
あったのは、彼女が無籍者であり、女ゆえに差別され、あるいは自己の意志を無
視された自己自身の痛みがあったからである。文子は獄中手記で『人は形の上に
於いて他人を愛することがある。而して、愛されて居るのは他人ではない。自分で
ある。他人の中に見出し得た自己である。即ち、其れは自我の拡大に他ならない』
という。文子にとって朝鮮人は拡大された自我であった。だからこそ、文子は今日よ
り遥かに厳しい状況の中で皇民化を強要する天皇制に抗して自己を貫き通した」

 戦争文学の寵児となって敗戦直前のフィリッピンで従軍作家として戦死した里村
欣三は、1926年5月号の『文芸戦線』に「思い出す朴烈君の顔」というエッセイを寄
せた。大審院で金子文子と朴烈に死刑判決が宣せられた日を文末に銘記しつつ、
自己批判の言葉を書き付けた。

 「私もまた一面識を持つ朴烈夫妻の今日の断罪を聞いてジッとしていられない。
それかといって何も出来ない自分の☓☓を思って、更に自分というものが嫌にな
る。」

 「金子さんは女学生のような袴をはいて中西伊之助さんの『汝等の背後より』を
手に抱えていた。よく笑って歯切れのいい、調子で快活に話す人であった。が靴が
馬鹿に小さいので君に朝鮮婦人そっくりだと始終思わせた、それを言って三人で
笑った」

 中西伊之助は朴烈が発行した『黒濤』や「現社会」にしばしば寄稿していた。

 金子文子の歌集『獄窓に想ふ』は、短歌とは石川啄木への憧れであった文子
の真髄でもある。

 文子が獄中から支援者の栗原一男に『啄木選集』の差し入れを依頼したのは
大正14年6月であった。

 「少し歌作の稽古でもしようかしら、・・・・・用語や色彩において、あの人(=啄木)
のが好きだ。真似るならあの人真似たい」

 あの月もまたこの月も等しきに等しからぬは我が身の上

 とき色の吸取紙にしみたる友の住所 たどりては読む


 散文的であり、抒情を目指しているとは思えない。この天、管野すが子と異なる
。作家志望でもあったすが子は、与謝野晶子の「みだれ髪」との出会いが歌との
接点であった。死刑判決を受け、26首の短歌を含む「死出の道草」を残したが、
抒情色の濃い短歌はすが子は自らの手で抹消している。短歌に天皇と結びつく
匂いを感じての恩赦の雰囲気を感じ取ったからかもしれない。

 だが恩赦は文子にとって単なる比喩でもなかった、。文子と朴烈は大審院での
死刑判決の後、恩赦!で無期刑に減刑された。だが減刑の通知を受け取った
文子は、渡されるやいなや、「いきなりビリビリと破いて棄ててしまった」恩赦を
受け入れることが圧政の元凶である天皇の慈悲を受け入れるという、天皇制の
広告に利用されることを拒んだのである。大正15年、1926年7月23日、宇都宮刑
務所ないで文子は縊死を選んだ。

  うつむきて股の下から人を見ぬ夜の有さまの倒が見たくて

 社会を、人間を、倒立の視点から見るその目は痛々しくも強い目である。

 獄中手記(何が私をかうさせたか』

 ここまでの驚異の筆力、表現力、苛酷な体験に裏付けられた強靭な主体性は
戦前、戦後を通じて他のいかなる女性にも見られない。自分をここまで冷徹に見
据えた思想の清冽さ、近代国家を詐称して人を苦難のどん底におとしめた明治
からの日本のあり方をとらえきった独創的な見識。比類ない手記として永遠に
読みつがれるべきであろう。

 手に採りて見れば真白き骨なりき眼にちらつきし紅の花

 追い求めた美しい紅の花は、手にした途端に、しらじらとして骨に変わった。
ここまで近代日本の欺瞞の絶望を感じ取った人間、女性はいない。

 

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