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zoom RSS ゴールデンバットと文学、「ゴールデン・バット殺人事件」、久坂葉子など

<<   作成日時 : 2018/05/13 19:26   >>

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私はタバコは吸わないが、以前から「ゴールデンバット」という日本のタバコの
銘柄、しかも古い歴史を持つ銘柄、ブランドであり、そこには多くの文芸作品との
深い関係が詩的もされる。つまらぬテーマであるが。ゴールデンバットは老舗
ブランドだが葉脈だけ使って製造されるというウワサがあり、タバコ工場でこぼれ
た葉を使って作るともいわれる、やや粗悪なタバコである。ただ緑色のデザイン
は魅力でこれが大きな効果を挙げている。

 長い歴史があるブランドのタバコだけに文学作品に取り上げられていることも
少なくない。「バット的」、「バット党」という隠語めいた言葉が昔からあり、下層な
労働者階級を表すともいう。が、それだけではない、ある意味、気取りや主張すべ
きスタイルの存在さえ示唆するとはいうが、・・・・・

 早世した神戸の女性作家久坂葉子の「私はこんあ女でござる」にはこうある。

   私はゴールデン・バットを愛好している。どんな金持ちの集まりの席上でも、
緑の紙袋を平気で出して吸った。おしゃれの私が、バットを吸うのを見て、他人は
不思議そうにみていた。自虐的だとある人は云った。ケチだとも云われた。何故、
バットを吸うのか私はわからない。・・・・・強いて、バット愛好の理屈をつけたら、
タバコ屋に行って、「バット」という音が好きなんだろう。妙に緊張して、こゝろよい
発音をするのが好きなのだ。(「わたしはこんな女でござる」久坂葉子)

 川崎財閥の家系の娘の本名川崎の久坂葉子が安っぽいバットを吸うという、い
ささか意外な光景、私はこんな女でござる、とそのバットで示される何かしら雰囲
気があるわけである。バットの刺激的な煙に巻かれて、自分の世界に漂うマジカル
な力も働く。憂鬱さの中に、夕闇に姿を見せるコウモリに気づく人だけが気づく。

 辻潤の息子の辻まことは「考えすぎる葦」として父親、「真夜中に一本の紙巻きを
吸うことの喜びを知らない人とは手を別たあければならない」という辻潤を。

   おやじは自分でもそれを十分に意識していたので、いつも孤独を養うことので
きる二階のある家を選んでいた。そうして他から自分を遮断していた。私の記憶に
刻印されて明白な印象は、そのような二階の部屋に座って茫漠とゴールデンバット
の煙を吐いている姿だ。部屋は昼間でも雨戸を半閉めして仄暗く夜は電灯に青い
布を覆って、わずかに机上に光を直射させていた。「考えを追求する精神」はどこか
非常に遠くヘ去ってしまって、矢鱈に烟を吐いている肉体は抜け殻となって実在を
失っていた。(辻まこと「おやじについて」)

 新感覚派の作家、十一谷儀三郎の『ちりがみ文章』(1934)にゴールデン・バットに
ふれたエッセイが数多く収録されている。

  「僕は一日にゴールデン・バットを最小限十箱吸う。十箱と云えば百本だ。一年
に三萬六千五百本!箱の意匠の金の蝙蝠が七億三千匹!」

 「僕はたいてい、一日に一食だ、二食はバットで補っている」

 「バットは僕の、態様で空気で水だから」   (「バット馬鹿の告白」)

 「二十六時中、ゴールデン・バットの煙を吐いている。僕の原稿用紙は、蝙蝠二匹
をそのまま、バットの定紋いりだ。僕の蔵書票も、バットの表を、そっくり使った。(

 「『白樺になる男』の時代は苦しかった。健康もいけなかった。生活自身もよくなか
った。身邊も重苦しかった。ゴールデン・バットを一日に十五箱もあけるようになった
のは、この時分からだ。汗に、小便に、ニコチンを排泄する。醫者が死ぬぞと云った。
死ぬほうが楽だと思いつめた」(孤独餓鬼の微笑)

 「本は私の人生で世界だ。私はおよそ、バットの無い生活を考えることが出来ない
と同時に本のない生活を考えることが出来ない」(書物つれづれ)

 十一谷義三郎は昭和12年、1937年4月結核療養中に死んだ。いくらなんでも一日
十五箱は無茶である。

 海野十三「ゴールデン・バット殺人事件」

 作品名にそのものずばりのゴールデン・バットがついた推理小説。「新青年」昭和8
年10月号、どこかしこに「ゴールデン・バット」が散りばめられている。

 カフェのゴールデン・バットが殺人事件の中心的存在。場所は明示してもいないが
、早稲田鶴巻町から江戸川橋あたりの神田川沿いらしい。かってはあの辺りにカフェ
があったのかだろうか。「薄汚いごくありふれたカフェ」とか「愛慾の大殿堂」などと表現
されていいる。

 そのカフェで全然もてなかった自称探偵の帆村荘六と相棒の「私」が高田馬場駅で
タクシーを拾おうとして深夜の鶴巻町あたりを歩いていて二人は殺人事件に巻き込ま
れる。

 帆村は犯人の悪漢を取り押さえるが、被害者の金(きん)は鉄球で肩を砕かれていて
そのうち死ぬ、カフェーーでやたらその金はもてていたという。、犯人と被害者はともに
ゴールデン・バットの愛好者と「私)は見抜く。犯行現場に散らばる大量のゴールデン・
バットに灰ばかり入っていて吸い殻のない灰皿。事件はカフェのゴールデン・バットと
タバコのゴールデン・バットが絡んでいることが明白となった。

 結局、麻薬目当てという落ちがあるが最後までそれは読者には想像もつかない。この
最後は当時としては限界的なエロと云われた。
 
 まタバコ本体のみならず包装の銀紙細工まで小道具として利用されるなど、そこまで
なぜゴールデン・バットにこだわるのか、理解しがたい。題名をそうつけたからかもしれ
ない。

 これは実話をベースにしたそうで、銘柄はゴールデン・バットという必然性があったの
かどうか。海野十三は濫作の傾向があってごく単純に現実の事件を作品化した。早稲
田の場末の怪しげなカフェ、名前がゴールdネン・バットはそれらしい雰囲気を醸し出す




 

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