つぶやき館

アクセスカウンタ

zoom RSS 長谷川湖代、ー長谷川春草の妻  銀座長谷川画廊(長谷川耕樹)

<<   作成日時 : 2018/04/27 22:34   >>

トラックバック 0 / コメント 0

  
画像
長谷川春草という俳人がいた。渡辺水巴門下であった。明治22年、1889年
東京の芝に生まれた。籾山書店に勤務、『俳諧雑誌』の編集に携わる。句作を
通じて同じ年に生まれた久保田万太郎と親しくした。昭和6年、1931年、銀座三
十間堀、におでん屋「出雲橋はせ川」を開く。久保田万太郎は「はせ川」を気遣
ってくれて、多くのお客を連れてきてくれた。当時の文藝春秋社員の永井龍男を
連れてきたのも、久保田だと聞いている。その縁で文藝春秋の執筆者も来てく
れるようになった。小林秀雄、河上徹太郎、横光利一、井伏鱒二、中島健蔵等々
。漫画家では横山隆一、清水崑、映画や演劇界の人も多かった。

 志賀暁子という女優がいた。小津安二郎の作品にも出演していたが、堕胎事件
で銀幕の世界から葬り去られた。彼女は横光利一が好きでたまらなかった。横光
が毎日立ち寄る「はせ川」へ日参したが、とうとう二人で話す機会はなかったと聞
いている。

長谷川春草は昭和9年、1934年7月に逝去した。享年46歳。句作は『長谷川春
草句集』にまとまる。序文を久保田万太郎と横光利一が書いている。横光は序文
の中で春草を「私の俳句の師匠である」とまで書いてくれた。過分な褒め言葉であ
るが、感謝したい。

 そこで妻の長谷川湖代が残された。その時、満34歳。客商売は素人同然であっ
た。私の祖母である。子供で葉、鏡、紫乃の三人がいた。葉が私の母である。

 湖代は一人で店を切り盛りした。今は多少は世間に知られる「はせ川」という
店名はこの時代の頃からだと思う。

 湖代は小柄でおとなしい顔立ちの人だったが、強靭な個性を持っていた。そうで
なければ幼子三人を残されながら、銀座で50年も店をやり通すことなど出来るこ
とではない。戦中、戦後を卓抜な行動力で乗り切った。

 終戦の数日前、木村禧八郎から「もうすぐ戦争が終わる」と聞くと、すぐに疎開先
から東京への転入許可を得て、焼け跡での店再開の準備を始めた。だが家族とは
その独断先行の行動力に振り回すことで、何度も怒鳴り合いの喧嘩があった。

 母の葉はきれいな人だった。女学校在校中、設立されたばかりの文学座の研究
生になり、舞台女優となったが戦後すぐ結婚した。仲人は横山隆一だった。だがこ
の結婚は不幸な結末を遂げた。母は四歳の私を連れて、祖母の店に戻り、以後は
祖母と一貫して行動をともにした。横山は「私の媒酌で唯一の失敗だった。以来、
私は仲人をしないことにした」と自伝で述べている。

 1970年、昭和45年、「はせ川」はビルに建て替えた。終戦後すぐの仮普請への
継ぎ足し、化粧直しではもう限界だった。東京都条例で木造の新築に許可が降り
なくなったため、仕方無しの選択だった。余裕の資金などどこにもなかった。無理
算段だった。ビル新築は湖代が自分のやり方をゴリ押ししたため、その後になって
家族に深い傷を残した。

  木造モルタルの「はせ川」最後の日、小林秀雄や古いお客様20名ほどが送別会
をやってくれた。青山二郎もいた、と後で聞いた。

 湖代の独裁は続いた、昭和53年、1978年、今度は店を画廊にして自分は隠退する
という。「画廊なら仕事が楽そうだから」そんな甘いものではない。私はもう勝手にしや
がれと思った。母はここでまた苦労することになった。

 その後の長谷川画廊の隆盛はすべて葉の手腕によるものである。

  
画像


 飲み屋「はせ川」の本当の最後になった。会を開いていたあいた。「はせ川学校同
窓会」という。最後は井伏鱒二に手締めをしていただいた。実はこの前の会も世話役
となってくれたのは永井龍男である。母は終生、永井龍男と横山隆一への挨拶は欠
かさなかった。

 長谷川画廊開店パーティーの日。湖代の友人のA女という人が来た。新橋の芸者
の一人娘で波乱の人生であったが、この時はすでの70歳を過ぎていたが会場の隅
で静かにしておられた。酒を運んでいた私は、永井龍男に呼ばれた。A女を見て、「
あの方、どういう方」鋭いと感じた。私は答えられず逃げてしまった。

 湖代は春草の死後も句作を続けた。長女の葉もこれにならう。二人は昭和21年に
久保田万太郎主宰の俳誌『春燈』の同人となった。そしゅて昭和48年、句集『長谷川
湖代句集』を上梓した。

 湖代は春草の弟子として句作を始めたため、終生、自分は春草には及ばないと
考えていたようだ。私は全く別の句境に達した人だと思う。

 1993年、母が体調を崩した。宿痾の最初の兆候だった。祖母は93歳で存命していた
。バブル時代の末期だったが、20坪に満たない銀座の土地の相続代は試算で一億
を超えていた。今相続が発生すれば土地も家も売らねばならない、と腹をくくって銀座
に戻る決意をした。古書の長谷川書店は銀座のビルの屋上のプレハブ倉庫に移転し
た。

 以来、わたしは古本屋と画廊の二枚看板で今日に至る。

 1999年、湖代死去、98歳。バブルは崩壊し、地価は下落した。

 葉はその葬儀を銀座の店で行った。葬儀屋も道路使用許可のけいsタウも驚いてい
たが敢然と実行した。葉の美点は真面目と誠実だが、自分の意志を押し通す強さを
もっていた。それが画廊経営の苦労を打ち破ったといってよい。多くの画家に助けら
れた。頼られ、好かれた。画廊経営は決して「アートの世界」ではない。ビジネスであり、
客商売である。細やかな気遣いが必要なのだ。

 葉は2004年1月「睦月俳句色紙展」の開催中だった。大腸がんが肝臓に転移してい
た。仕事の最中に倒れ、現役として人生を終えた。

 葉の死は2004年3月21日、晩闇であった。78歳だった。病床で詠んだ句がある。最後
の句作であろう。

 春風やわがみいたはるをかしさは

 私はまだ葉の俳句を評価論評する機会を持てない。後日、『長谷川葉句集』をまとめ
る日を待ちたい。

 

 

月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
長谷川湖代、ー長谷川春草の妻  銀座長谷川画廊(長谷川耕樹) つぶやき館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる