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zoom RSS 伝統の仮面をかぶる日本のファシズムとは

<<   作成日時 : 2018/04/26 11:08   >>

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  現在、隆盛を極め、自民党の事実上バックにいる日本会議にその典型を見る
日本の右翼、保守運動は本質的にはナチズムと共通する近代ファシズムである。
だがその大きな特徴はその正当化に極度に「伝統」を口実とする点が挙げられる。
現在もなお日本会議中枢の神社本庁、その政治組織の神道政治連盟が戦前の
「不敬罪」の復活を要求しているのを見ても、明治に早世確立された古代をなぞら
えてこの近代に空前のファシズムを樹立したという、そのファシズムの再来を要求
していることは明治以降の神道がファシズムの道具化されたという構造的要因を
見ることが出来る。

  明治維新の後、確立せられた日本初の近代国家はまことに異様を極めていた。
端的に言えば極度の時代錯誤であったことである。その時代錯誤がこれまた極度
の強権、弾圧国家を生み出したこと、「伝統」、いいかえれば荒唐無稽な神話が
絶対的な国家原理となり、それを近代国家に適用する中で結果は全くの近代ファ
シズムが多くの新たな制度、祝祭日、、諸概念の創設により、全く新しいファシズム
の手段としての伝統の詐称が行われたたこと、君が代、日の丸など実質的には江戸
時代まで存在しなかったに等しい、無意味であったものが絶対的価値を与えられた
こと、皇室祭祀、祝し味付も江戸時代までは全然存在しなかったものが多数う創設さ
れ、近代ファシズムの近代天皇制の教化に学校教育がフルに利用されたという、い
かにも近代国家らしい特質に彩られたものであったこと。

 ここで国家神道=近代天皇教という近代ファシズムをことこまかく論じる必要も余裕
もないが、ドイツと異なり、それがある意味、そのまま継続したのは明治以降の近代
天皇制が基本的に継承された、大日本国憲法の完全な神話依拠から象徴天皇制に
移行しても明治以降の「天皇制」は継続した。そこから権力中枢が戦前のファシズムに
そまる団体をバックとするファシズム体質を強固に持つ存在となった。

 そこで戦前の国家神道ファシズムは戦後に生き延びた。神社も伊勢神宮を全て本宗
とする疑似一神教のファシズム対応体制がそのまま継続し、それが日本会議にそのま
ま継続している。

 そこで現在の、別に過去も将来も日本の右翼保守勢力がその正当化を「伝統」にお
いているという事実である。

 日本会議などの(自民党も含めて)いう「伝統」が本当に日本の「伝統」であるのか

 「伝統」であればそれが正当化されるのか、

 という二つの論点が浮上する。その「伝統」というもののほとんどが実は明治政府に
よって国家神道ファシズム国家のため、「新たに作り出したもの」ではないのか。

 「伝統」であるから正当化はあり得ない、時代の進展は過去の因襲の廃棄解体を求
めるものである。「伝統」が過去においてはびこった迷信、因襲でしかないことが多い。

 最近話題を集めた「土俵に女性を上がらせないは、それで「神事の伝統」であるか
ら絶対死守、と言う精神構造にしても本質は明治以降の迷信でしかない。神道過激
思想に操られた明治維新は数多くの「神事」の迷信を創設した。ソレが固定観念とな
り、人の批判精神すら喪失させているのである。

  1997年の設立された巨大組織右翼団体、日本会議の主張は基本は「伝統回帰」
であり、その「伝統」が明治政府創設の近代ファシズム体制の諸アイテムへの回帰
であることはまた明白である。戦争推進の強力な道具となった神社が神道政治連盟
などを通じて海外派兵推進の運動を行うのも明治創設の近代ファシズムの道具への
回帰を鮮明にしたものである。

 「伝統」であるという、実は本来の伝統でも何でもない、一時的なファシズム体制の
アイテムに過ぎないことへの回帰を咆哮し、思考停止に陥り、国民を思考停止に導く
という手法が繰り返されているのは事実だ。

 日本の右翼、保守勢力が伝統の仮面をかぶっているわかり易い例はその「家族制
度」の主張、女性問題への主張である。多くの別働隊である保守団体を持っている日
本会議であるが、橋本龍太郎の未亡人の橋下久美子を会長とする組織でも「妊娠の
人工中絶からの経済理由の削除」に見られる、谷口雅春時代の生長の家からの悲願
!の優生保護法改正!、経済的理由の削除という運動が今なお継続されている。

 「選択的夫婦別姓制度」への反対にしても、江戸時代まで庶民は家族制度は公には
認められてなかった、というべきである。豊臣秀吉の庶民の「苗字帯刀禁止」に見られ
るように表向きは苗字・名字は禁止されていた、。家族制度とは公家階級に限られて
ていた。庶民の家族制度はしょせんはもぐり!でしかなかった。家族制度が日本人全
体の伝統でありえないことは間違いない。

 「男女共同参画社会」への執拗な反対運動に見られる、伝統に名を借りること自体
が不適切な事例に異様な周年で反対を行い続ける、全ては明治以降の女性抑圧の
価値観への回帰であり、伝統の名に値しない、単なるバックラッシュ、時代錯誤の反
動である。

 「伝統」を絶対的な正当化の口実にする点ではイスラム原理主義と共通だが、やは
りイスラム原理主義と同じくそれは真の伝統ではないことも共通だ、イスラム原理主義
の「原理」は本来の意思ラムの伝統ではない。それと同じくにほんかいぎのいう「伝統」
も明治政府により一時的な特異なファシズム体制のアイテムでしかない。

 ここで宗教学者、島薗進氏の考えを引用いたします

 ー日本会議の主張を見ると、「伝統」という言葉が散見します、彼らの言う「伝統」とは
何を意味するのでしょうか。

 島薗・江戸末期に至るまで天皇の存在は多くの日本人が意識しないものでした。
日本会議の主張を見る時「国体」という概念が一番重要です。「古代神話時代の神様
につらなって天皇が永遠に続いている国、日本」という概念です。つまり「万世一系」で
世界で唯一の優れた国あり方で「和の国」であるということです。この「歴史上一度も
変わらない」国体こそが日本の「伝統」だとすのです。

 つまり日本会議のいう「伝統」にはすでに「国体」の観念が入っている、明治維新後は
其の国体論こそが唯一の正当な思想だとなりました。一度近代国家が正当と認めたも
のは、国民に共有されたため容易に消えないのです。「歴史っ上一度も変わらない」が
実は全然事実でなくても、強力な感化力を持つわけです。また「神に由来の天皇」という
宗教性があります。1930年以降、さらに「伝統」、「国体」が強調され、国全体がそれ一色
に染まりました。さらに天皇の犠牲になって死ぬことが至高の価値とまでされました。

 江戸時代末期に始まった招魂社、靖国神社のもとの招魂祭にその傾向が見られます
。しかし国のために国民全体が犠牲になる、なんて時代はそれまで、江戸時代まであり
ませんでした。明治以降、天皇が特殊な政治的機能を持ってからです。江戸時代までは
天皇は全く象徴以前の形式的存在で全く政治的実権などなかったのです。だから明治
以降の特異な推移は伝統ではありません。

 国体論的な思想が正統思想として国全体を導いたのは、尊王攘夷運動から明治維新
への流れで起きたことです。国体論的思想は近世に出来て近代に広まりました。
万葉集の「海行かば」という大伴家持の長歌を軍歌に利用するなど、あたかも古代的な
伝統を持っていると装ったのです。

 「伝統」というとき、どこまでそれが歴史的事実なのか、どこまでが信念、作為なのか
を見極める必要があります。明治維新後の天皇への忠誠のバックボーンは実は長年の
封建領主との主従関係、「領主」のためという精神構造がすり替わったと思えます。

 ー「伝統」にそぐわないものに「反日」のレッテルを貼るなど、日本会議などは自分たち
の価値観を共有しないものを激しく攻撃します。これも国家神道に特有なのでしょうか?

 島薗:江戸時代に国学というものがあった、「仏教や儒教は日本本来のものではない」
として批判、排斥する流れがありました。一方、幕末や明治維新でもっと強い影響をもっ
たものは国学より水戸学です。国体論では「日本は世界で唯一の国であり、他よる優れ
ている」という考えがあります。他に勝っているがゆえに、自分たちの思想や勢力を広め
ていくことに正当性がある、使命があると考えるようになりました。キリスト教も「自分たち
こそは正しい」、中華思想も「皇帝こそが神聖な権威を持ち、世界統一の儀礼を行い、民
はそれを守る」というものです。独善性は何も日本だけではないのですが、其の影響は
受けているはずです。

 −明治時代の国家神道について、島薗さんは「天皇を頂点とする権威性はあるが、一
方で別なものがあって『二重構造』を形成している」と指摘されてますね。それがここにき
て、日本を「一元化」できるという考えが広がっています。

 島薗:1930年からの15年戦争の体制に戻るとは考えにくいでしょう。ただその傾向は出
てきています。伝統なるものに沿って全体の秩序を尊ぶことで、人権や精神の自由が抑
圧されているという事象が多くの場所で起きています。

 大学であまり自由にものが言えなくなるとか、テレビの報道番組にも政権や日本会議
関連団体の介入が顕著で報道の自由が阻害されていること、ソフトな全体主義、ファシ
ズムという段階でしょう。実は世界的にそういう傾向が出ています。日本、中国だけでなく
ロシア、アメリカ、ポーランドなどでもです。残念ながら日本もそういう全体主義に向かって
進んでいます。ジョン・ブリーン教授が『神都』物語で述べていますが、講和以後、、伊勢
神宮や三種の神器が国家的な価値意味をもってきています。おsれについてメディアも
沈黙ですがこれは考えるべきことです。

 「文化の日」を明治の日にしゆという運動があります。明治の日というのは明治節であり、
その前は天長節ですからまた戦前回帰でしょう。

 このように国を危うくする国体論的な思想、国家神道的な精神構造が浸透しています
。私が「二重構造」というのは国家神道が国民それぞれの思想信条の上にかぶさって
統合されるという意味です。歴史教科書で「戦前の体制が良かった」と主張しているのは、
「戦前に戻ることは日本本来の姿に戻ること」と考える人が増えてきています。これは非
常に危険です。

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