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zoom RSS 文化学院、・・・・学校制度から解放された理想の教育

<<   作成日時 : 2018/04/18 22:39   >>

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よく芸能人、若い人にはいないが「文化学院」卒業などとなるのを見た時、ハテ、
文化学院って何、学校は学校だろうけど、・・・・・いちおう、その基本的な建学の理念
をウィキでおさらいしておくと

文化学院(ぶんかがくいん)は、かつて存在した東京都墨田区両国二丁目18-5に本部を置く日本の専修学校である。1921年(大正10年)創立、2018年閉校

建学の精神
西村伊作、与謝野晶子、与謝野鉄幹、石井柏亭らによって創設され、「国の学校令によらない自由で独創的な学校」という新しい教育を掲げ、「小さくても善いものを」「感性豊かな人間を育てる」などを狙いとした教育が展開された。しかし、この教育が後に戦時体制となった国により、弾圧を受けることになった。日本で初めての男女平等教育を実施、共学を実現した。日本文化のみならず、キリスト教精神や西洋文化的教育が盛んに行われ、教員に多くの西洋人を招いた。創立当時から制服はなく、和服より洋服を推奨し、当時では珍しく、生徒のほとんどが洋服を着ていた。その頃から文化学院はオシャレの代名詞として知られていた。創立当時から現在に至るまで、多くの日本を代表する著名人、文化人、芸術家、西洋人たちによって教育が行われ、さらに多くの著名人、文化人、芸術家を輩出している。日本の現代史、文化史においても重要な位置づけであり、戦時中や学生運動、神田カルチェ・ラタン闘争真っただ中であっても、常に自由思想の先頭にあった学校である。広辞苑に載っている数少ない学校の一つでもある。かつて教員はじめ、在校生、卒業生たちからはユートピアと評され、学生の憧れの的だったという。「自由」、「知性」、「芸術」の象徴であった。


 なるほど、と思うだろう、戦前の学校令、戦後の学校教育法という国の教育制度に縛ら
れない自由な教育を行うことを目的とした理想主義的な学校である。学校教育制度に枠
内でいえば、自由学園などとコンセプトは共通点があるかもしれない、内容は大違いでも


  学校制度に縛られない学校らしくない学校

 文化学院の創設は『改造』や『中央公論』などの雑誌にかなり華やかに広告された。創設
者である与謝野晶子を始め、皆が自分の寄稿している雑誌に文化学院の教育の理念など
を述べた。設立趣意書が印刷され、園が多くの子女を持つ文化人に送付された。その一期
生の一人は、その叔母が文化学院創設の広告を掲載していた『改造』を持って駆けつけた
、と述べている。

 入学試験は課されることはなく、そのかわり、教育理念に対する親の意見書が求められた
。入学申し込みを行ったものは、全て与謝野夫妻の自宅に呼ばれて個人面接を受けた。文
化学院に入学することは単に教育を受けるだけでなく西村伊作たちの私的な交友グループ
に加わることをも意味していた。入学が決まると与謝野晶子直筆の毛筆による手紙が送られ
た。

  「この後は家庭の延長として本校をお考えくだされ、お親しく願います」

 与謝野晶子夫妻、西村伊作、石井柏亭らも自分の娘達を次々と文化学院に学ばせた。そ
の旧友となった者たちの親はと見れば、当時、次のような著名な文化人の名前を見いだす
ことができる。

 新居格(評論家)、竹内好(中国文学者)、萩原朔太郎、寺田寅彦、森田たま、竹久夢二
、谷崎潤一郎、山川柳子、石井漠、棟方志功、・・・・・・など錚々たる日本を代表する文化
人だちである。

 与謝野寛は日本文学、晶子は和歌と古典、のちに源氏物語、石井柏亭は絵画、山田耕
作は「音楽及び舞踊」、舞踊詩リトミックダンス、ガントレット父娘は英語、カリキュラムは自
在であり、成員の個性で決まった。当然、学校令のワクに収まるはずもなく、文化学院は
あえて無認可の各種学校として創設された。

 そてのみならず伊作一家は学院内に居住を移し、フランス料理店「めぞん鴻之巣」の
主人は「西洋料理」を教え、大石誠之助未亡人は「ハウスマザー」として毎日、食堂で働
いた。伊作自身は「精神講話」を講義していたという事実からも、伊作を中心とした大家族
的経営とそのサロン的性格を帯びていたと思われる。

 カリキュラムは固定もされず、持たれることもなく・ここの完全なる自由を保障する自由の
場であった。

 関東大震災後は、山田耕筰がさり、谷崎潤一郎らが関西移住、ジャーナリズムの台頭で
新詩社同人たちも多忙になり、『明星』を維持していた社内の親密な個人的交際は少なく
なった。

 いずれにしても自由な教育が当時の国家神道が教育制度で叩き込まれるという風潮に
真っ向から対立する存在であった。戦時下となり、ますます弾圧は激しく1943年、不敬罪で
西村伊作は逮捕され、半年間獄中にいる羽目となった。また強制閉校の処分ともなった


 すなわち昭和になって与謝野寛は文学部帳を退き、代わって菊池寛が就任した。講師
として川端康成、横光利一、中河与一、小林秀雄らが就任した。

 戦時下となって統制は強まりばかり、当時のミッション系学校の外国人校長に出された
のと同じ辞職勧告が西村伊作にも出された。しかし伊作は「法人組織でなく西村個人のも
の」として存続を続けると明言し、ついに言葉尻をとられて1943年9月1日、学院は強制的
に閉校された。

 その当時、国家の弾圧を和らげるため国家神道ファシズムに迎合した路線への転換
を、一時的にでも求める人たちが周囲にいた。だが西村伊作は

 「わしが死ぬ時は此の文化学院もなくなってしまうんだ。学校内のいろんな所に、爆弾
を仕込んで、いっぺに爆発させてやるんだ」

 と権力への迎合をもちかける人たちに耳をかさなかった。

 

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