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zoom RSS バレエが似合わない日本人にバレエを教えたエリアナ・パブロワ

<<   作成日時 : 2018/03/14 11:08   >>

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確かに現在、世界的にといっていいのかどうか、実力を認められているクラシックバレエ
のダンサー、は日本人にもいる。居るのだが、ではクラシックバレエが日本人に似合って
いるかといえば全く似合っていない。日本でトップクラスバレリーナでもロシアなどの白人
国の一流バレリーナと比べると、当然ながら体型からしてまったく足元にも及ばない。日本
人バレリーナが世界に伍している、またローザンヌに入選は、しょせんは黄色人種への、
ある種の同情であると考えられる。・・・・・・・・・・・・・・・だってそうでしょ、日本人にクラシック
バレエが似合うはずはないんだから、やっているのは横好きなだけ、・・・・・と言って過言で
もないだろう。日本のトップのバレリーナ、男性ダンサーを見ても正直、感心するものはない
。要は日舞を彫りの深い背の高いプロポーションのいい白人女性がやっても似合わない、
また白人が清水の次郎長の演劇をやっても似合わないのと同じことだろう。西洋オペラを
日本人がやっても、やはり、似合わない(仕方がないが)のも同じこと。

 その意味で日本人にはおよそ似合わない露出度の高いクラシックバレエを広めた人
が、エレアナ・パブロワである。

 その日本人、日本にバレエを教えたのはロシアからのエレアナ・パブロワである。こ
こから間違いが始まった?のかもしれない。

 エリアナ・パブロワは往々にしてあのアンナ・パブロワと混同されている。これは昔か
らである。

 エリアナ・パブロワは1897年3月22日にコーカサスに生まれている。ロシア革命で軍人
の父をなくして、かってオペラ歌手であった母のナタリアとバレエを習得していたエリア
の芸だけが一家を支えるものであった。それに頼って各地を公演し、シベリア経由で、
中国、1919年夏、神戸になんとか辿り着いた。

 神戸に上陸し、すぐに7月31日神戸オリエンタルホテルでの公演を皮切りに、神戸、
横浜の外人居留地で亡命芸術家仲間との合同公演としてバレエを踊った。並行して
浅草、帝劇、有楽座などにも進出した。当時、様々な舞踊が混在してまだ混沌たる状
況であった日本で、ここで真に本格的なクラシックバレエを紹介したのがエレアナであ
った。

 その後20年間の滞在で日本のバレエ界に弟子を育てた。笹田智恵子、橘秋子、牧
幹夫、東勇作、貝谷八百子、浅野歌子、緒方玲子、星野安子、大滝愛子など。

 錚々たる日本のバレエ界のその後の重鎮が彼女に育てられたわけである。それが
更に分家を繰り返して日本のバレエ界は成立したわけであり、日本のバレエの実質
的な生みの親はエレアナ・パブロワと断じて何の。過言でもないのである


  エアナが本格的なバレエスクールを設立したのは関東大震災後であった。震災
で拠点であった横浜のゲーテ座を失い、また一緒に踊っていた妹のナデジダが足を
負傷したことから、一旦、日本での活動を断念し、上海に渡った。翌1925年6月23日
、支援者の求めに応じて再来日、鎌倉の七里が浜にバレエ学校を設立した。

 その門下生はほとんどが文化人、裕福な階層の子女であり、礼儀、身のこなしを
身につけるという目的もあって、芸事として入門してきた。バレエスクールの修養期
間は3年、3年経つと発表会で自作自演し、「パブロワバレエスクール卒業」という肩
書を許された。独立後も「賛助出演」として発表会に参加するなど、師弟関係はその
後も色濃く残されていた。

 こういった縦の関係の強靭さは、現在のバレエ界の実は大きな特色となっている
。日本独特の縦の関係の伝統が亡命ロシア人のエリアナに受け継がれてのである
。エリアナは系統だったバレエの教師というよりあくあmでも芸術肌のダンサーであ
あった。彼女の目標はあくまで舞台上での表現であり、弟子には基礎技術は異常
ナまでに厳しく指導し、後はセオリーでなく舞台でどうまとめるかの手法を優先した
。そこから日本のバレエ教育、指導が系統だった方法より、作品を仕上げることに
よる独自仕上げに重点を置く傾向はある。西洋の芸術であるクラシックバレエは日
本で独自の方法論を育てたとも言える。

 しかし、戦争にひた走った日本は亡命ロシア人にことのほか警戒を抱いた。戦時
下では七里ヶ浜のバレエスクールはしばしば看板が壊され、ガラスが割られた。床
の下には特高が潜んで盗聴し、生徒の父兄は尋問さえ受けた。そのような事情の
もと、彼女は1933年4月26日、帰化を申請した。許可は1937年6月30日、日本名は
霧島エリ子(母のナタリアは霧島桜子、妹は霧島撫子)、

 その頃から「私は日本人」としきりに口にして慰問を志願し、1941年3月11日、弟子
、門下生の反対を押し切って、中支軍慰問団団長として広島の宇品港から上海に
出航、彼女の消えた七里ヶ浜は戦地からのファンレターが数多く届いた、という。あ
る手紙は慰問公演の内容を克明に記し、名前も書かず「この手紙はお読みになって
焼却してください」とあった。

 また戦地でエリアナが微笑むスナップ写真を送ってきた兵士はその裏に詩を書い
ていた。

 先生が東京に着く頃は 今夜のようなこの月が

 銀座辺りの街の飢えに  きっと輝くことでしょう

 前線慰問の過ぎし日を  想いだすように浮かぶでしょう


 しかしエリアナが彼らの手紙を読む日は遂に永遠にこなかった。5月3日、南京の
中支陸軍病院で破傷風を感染、この世を去った。44歳であった。

 ある門下生の証言

「オリガ・サファイアに比べてエリアナが教えたのは本式のものではなかった。それ
は職業化した今のバレエとも異なる、弟子を持つのが目的でもない、大成しない
バレエであるが、それこそ真のバレエとも思えた。情緒が豊かだった」

 緒方玲子は

 「色な人が『瀕死の白鳥』を踊る、でもエリアナ先生は全く違った、先生の『瀕死
の白鳥』は本当に泣けてきます」

 結果として多くの門下生を育て、日本にバレエの種をまいた、このことこそが
エレアナの偉大な功績である。エリアナの死後、バレエ界は今日の隆盛を迎え
ルマで暗中模索の日々が続いた、エリアナの残したその余白を個人個人の創意
工夫で埋めて発展させた。私財をなげうつ日本のバレエ界の伝統なのである。

 

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