つぶやき館

アクセスカウンタ

zoom RSS 剃るぞ!恐怖の厳罰に至る八田一郎氏の青春(日本アマレス界の偉人)

<<   作成日時 : 2017/10/08 00:39   >>

トラックバック 0 / コメント 0

 日本のレスリングの生みの親、にして育ての親、八田一朗氏の功績の偉大さ
は到底語り尽くせるものではない。ところで八田一朗氏で有名な言葉は東京五輪
前に選手に課した猛特訓、その挙句の恐怖の厳罰「剃るぞ!」、上の毛も下の毛
も剃るという、ユニークで惨憺たるもの。流行語にもなった「剃るぞ」に至る八田
一朗氏のレスリング開拓、日本普及、強化の人生、同時に国際交流にも熱心で
例えばヨーロッパのレスリング界に昵懇なため、かって誕生した国際プロレスの
外人招聘でそれまで日本に馴染みのなかったヨーロッパ系レスラー、代表が大
英帝国王者のビル・ロビンソン、モンスター・ロシモフの国際プロレスへの招請な
ど、世界におけるレスリング界での八田一朗氏の影響力の大きさは想像を超える
ものがあった。

 その八田一朗氏、自伝はないし伝記類もない。ただ八田一朗氏自身が自分の
青春、生い立ちについて語った唯一の文章が残っている。

 ★ 度重なる喧嘩とイタズラ

   掃除で水を撒く代わりに小便を撒く

 私の父は軍人であった。家のしつけは厳しかった。父はあまり家にはおらず、私
が何か悪さをすると、母が鴨居にある二尺の鯨尺で私をぶった。小学校は、父の
仕事の関係で、あちこ地を転々とした。母は、毎日私を学校へ送り出すとき、

 「いたずらするんじゃないよ」

 といった。そのうちに。私が始終、喧嘩ばかりやって帰るようになると、毎朝い
われる言葉というのが。

 「喧嘩するんじゃないよ」

 に変わった。それも喧嘩の相手はいつも上級生だった。

 大正八年、それでも開成中学に入学できた。競争率は高く、十倍くらいだった。
私の一生を決めることになる柔道を始めたのも、この開成においてであった。中
学生になっても、父親は私に新聞も小説も決して読ませなかった。小説など、全
部うそを書いているというのが父の言い分であった。私に海軍兵学校と同じよう
な教育を施そうとしたのである。だから私は、立川文庫などを読むのは学校にお
いてだけであり、それも授業中、教科書の間に挟んで読んでいた。家には決して
持ち帰らなかった。

 開成でも相変わらず喧嘩の日々だった。またイタズラばかりして教師たちを困
らせていた。今でもあるだろうが、早弁といって弁当を昼休み前に弁当を平らげ
てしまう。怖い教師に時程、これを実行するのが自慢であり、また何分で食べる
か、競争しあって、掃除当番のときはホコリが立つので水を撒くのだが、水の代
わりに小便を撒いたりしていた。

 学校ではこんなことばかりやっていたが、私は長男であり、父も母も随分と厳
しく私を育てた。家では一切、悪いことなどしなかった。だからその分、外に出て
暴れていたともいえる。今流に言えば、欲求不満だった。

 柔道はなんとなく好きで始めたが、だんだん本気で強くなりたいと思うように
なった。これも親の期待に何らかの形で答えたい、あるいは何かで目立ちたい
という気持ちの洗われであったかもしれない。

 そんなわけで成績は悪く、家に警告がくるくらいであった。開成では百点満点
で成績がつけられたから、あまり悪い時は苦し紛れに10店の後ろに0をつけた
り、親父は成績表は悪くもないのに、学校で悪いというのはおかしいなどと呟い
ていた。小さい頃からあまり親父とは接触もなく、恐ろしくもあり、おふくろは私
を一高から東大と考えていたから、家ではかなり息苦しい思いをした。成績の悪
さ、度重なる喧嘩、遂には三年でとうとう退校処分となった。

 転校したのが今に日比谷にあった海城中学に移った。開成での勉強が進んで
いたので、ここでは成績は上位になったが、それでも丁を甲にみせるなど姑息な
隠蔽をやっていた。

 大正12年の秋、神田のニコライ堂の前を仲間と通りかかると、後ろの方いた
誰かの傘が、走ってきた自動車に当たったらしかった。運転手が降りてきて、一
番前を歩いている私に殴りかかってきた。そこで喧嘩が始まり、こちらは四人、
相手は十数人の車引が助太刀に入って大乱闘になった。

 翌日の朝日新聞に大きくこれが掲載されて、この学年末に私は海城中学も
退校となった。

  ★女に騙されるんじゃないよ!と母が「阿部定事件」の新聞切り抜きを
 留学先に送ってくれた


  
画像
当時は四年修了で大学を受験できたから、他の学校にはもう転校しなか
った。しかし受験はしたものの、勉強はやっておらず、やる気もあまりなく、当
然に不合格であり、予備校に通った。大学に通らないと徴兵にかかってしまう。
どこかの大学に入らないといけないと考えた。将来は,海軍、陸軍の軍人にな
ろうとは思っていたが、まずは大学を出てからにしたかった。予備校は早稲田
に入るまで二年間通った。でも勉強らしい勉強はほとんどしなかった。家にいた
ら勉強、勉強でうるさいので、仕方なく予備校に通ったようなものだ。

 柔道はこの間も講道館に通って続けていた。

 浪人なんて、つくづく何もいいことはないと思えた。といって何年も浪人して
家族に責められるなんてこともなかった。家族は私の浪人を責めることで逆に
反抗的となられて、当時盛んだった共産主義運動にでも入られたら、という懸
念があったらしい。しかし私にはそのような素質はまったくなくて、杞憂であっ
た。私は大して悩むこともなかったが、常に何かに追い立てられているような
気持ちは本当に嫌だった。

 先輩のすすめもあり、二浪の末、早稲田の政経学部に入学した。そのころは
母親ももう一高から東大という道は諦めていた。だから文句も言われなかった
。早稲田は当時、柔道では日本一であった。早速、早稲田の柔道部に入り、朝
から晩まで稽古の連続だった。多い日は1日、6時間もの稽古だった。朝の五時
から七時までは講道館で寒稽古、八時から九時までは学校、その後は町道場
で稽古ということもあった。これはほとんど柔道の専門家と同じレベルの練習で
あり、後は眠くて勉強どころではなかった。

 だから出来そうなやつを友達にしていた。試験前に要点を教えてもらい、なん
とか及第点だけはとるようにしていた。

 大学に入っても親の心配は絶えず、おふくろの言葉は三度変わって

 「女にだまされるんじゃないよ」


 に変わった。後に、英国に留学したとき、わざわざ阿部定事件の新聞記事を送
ってきて、「女に気をつけなさい」と言った。

 昭和4年、柔道部の一員でアメリカに渡った。このときアメリカのレスリング選手
との試合で、柔道部員が十日感もい意識不明になるような重篤な負傷を負った。
これをみて私は、将来、柔道はレスリングに負けるようになると考えざるを得なか
った。

 このときから私のレスリングに賭ける人生が始まった。帰国後すぐ、大学当局
にかけあってレスリング部の創設を働きかけた。だが容易にことは運ばず、でき
たのは昭和七年、私の大学卒業の年であった。

 そこまえ漕ぎ着けるには柔道部の妨害もあって、さらに一緒に始めた柔道部の
仲間も次々と去り、結局、柔道部とは無関係な人たちと一から出発となった。

 国内でレスリングを知っている人は誰もおらず、本を頼りに必死に勉強した。た
だレスリングは柔道と似ている。柔道経験は十分に役立った。レスリング部の創
設までが私の人生で最も厳しい時期であった。今に見て色、という負けじ魂で頑
張リ抜いた。オリンピックでの優勝が私の目標となったんである。

 
 

月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
剃るぞ!恐怖の厳罰に至る八田一郎氏の青春(日本アマレス界の偉人) つぶやき館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる