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zoom RSS あゝ青春の日大全共闘、秋田明大と新谷のり子

<<   作成日時 : 2017/10/07 00:24   >>

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  1960年台末期、つまり1968年から1971年くらいまで全国の大学を席巻
した自発的学生運動、全共闘運動、全学共闘会議の残した歴史の足跡は
日本の学生運動というより日本の歴史に燦然と輝く、泥だらけの輝かしい
歴史である。全共闘運動の先頭を切ったのは日大である。その中心となっ
てリーダー的存在となた秋田明大、・・・・・広島県出身なのに秋田、日大な
のに明大という実態との不一致が何かそれさえ魅力だった。

 「フランシーヌの場合」で反戦歌手として異例なデビューを果たした新谷
のり子さん、函館から高3春家出して東京に、歌手になろうという夢、でも
下積みで見た音楽関係者の言動から幻滅は隠せなかった。

   新谷のり子さん

 
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 コンサートのリハーサル

  
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 当時同室だったふみちゃんと

 
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 新谷のり子さんは上京後、三里塚の集会に参加するなどしていた。1969
年3月30日、新谷のり子さんはその集会に参加した。厳重な機動隊の想像
を超える警備に驚きながらも「三・三○三里塚軍事空港粉砕闘争」に参加し
た。その日、同じ日に、パリでベトナム戦争に抗議してフランシーヌ・ルコント
という女性が焼身自殺を遂げたこれを新聞で知った新谷さんの友人が、「フ
ランシーヌの場合」という曲を彼女にプレゼントした。国内ではまず東大、日
大に全学共闘会議が設立された。

 全共闘運動が何であったかを考えると、既成の政治団体、政党とつながり
のない、ある意味純粋なスチューデントパワーであったが、人によると反代々
木系として育てるため自民党などから金が出ていた、と中傷する人もいる。そ
レが結構根強い、・・・だが現実、だが内部から次々と日和見る者が出てしま
い、徐々に弱体化したのは否めない。

 ★新谷のり子さん  日大全共闘の「外人部隊」となる

 新谷のり子さんは明治大学学生会館や日大の津田沼校舎のバリケードに
出入りしていた。バリケード内では学習会は行われており、『共産党宣言』、『
空想から科学へ』、『国家と革命』、・・・・「なぜですか?」という質問の答えを
理解するのに数時間もかかったという。巷にはジョーン・バエズ、ピーター・ポー
ル・アンド・マリーの歌y反戦歌が流れていた。そんな時に、「フランシーヌの場
合」のレコード家の話が舞い込んだ。

 新谷さんは脇目も振らずに疾走した。「闘争」という心にあった物、正義、それら
が旺盛な好奇心、正義感により、『全共闘運動』という初級クラスで鮮明に写し
出されようとしていた。自由に語れる空間に、あふれるほどの仲間たち、虚栄も
偽りも必要としない人たちの間で、それまで生きてきた世界と全く異なる世界を
自分の手で実現できるのではないか、そんな希望が見えてきた。

  人間の生き方、差別と抑圧、自分と家族、侵略と抵抗、戦争の意味、生き
ること、死ぬこといろんなことを身近な問題として学んだ。嵐がさり、権力の徹
底した活動家潰しが始まった、各党派の対立ももちこまれ、全共闘運動は歯
が抜けるように崩壊の道を辿った。しかし新谷さんは全共闘運動に後悔はなか
った。

 ★日大全共闘運動の発生から消滅

  
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 60年代松から爆発的に盛り上がった全共闘運動はセクトに属しようが全セク
トであろうが、無関係にやる気のあるものなら自由に参加できた新しいTタイプ
のが癖運動である。日大z年共闘闘争はその始まりであった。

 1968年、昭和43年春、「20億円の使途不明金」への日大学生ノイアkリが爆発
し、ここに日大全共闘が始まった。

 昭和43年、5月11日「ウンカのよう」と表現されたほど、人、人、人、見渡す限り
の人の海、東京神田三崎町の白山通りは使途不明金の怒りに燃えた日大の
学生が集った。

 発端は国税庁の発表した些細な、いわばベタ記事だった。

 「日大には過去5年間で約20億円にのぼる使途不明金がある」(4月15日)

 実際、その当時の日大は定員の数倍もの水増し入学が恒常化し、出席しよ
うとしても教室の椅子が不足で座れないという惨憺たる有様だった。学生課に
いって「座る席がない」というと「そのうち出席者が減るからいい」というお粗末
なもの。このような日頃の鬱積した不満に、「使途不明金」、授業料まで何かに
流用しているのではという疑念、ここからスクラムの組み方も知らない学生まで
参加する闘いが始まった。

 その一方で大学当局に反抗したら体育会系、右翼学生を使ってのリンチが
常識というひどさ。当時に日大トップ、古田重ニ良は「全学連など一人もいない
日大」を自慢していた。それだけに抗議活動も最初は微々たるものだった。

 それが瞬く間に数千人に広がった。集会が開かれるたびに参加者は著しく
増加の一途、倍々ゲームだった。右翼学生、体育会学生の暴力を利用した
恐怖政治の弊害を打破し、自信を持つに至った学生は、10万人に達する日大
学生は、もう我先にとデモ隊に加わった。当初は学生運動に救っていたセクト
は表面化せず、学生服姿の、なにか不似合いな学生すら参加していた。

 5月27日、三崎町の経済学部前に5000人が集まり、理事の総退陣、経理の
公開などを求めたスローガンを叫び、ここに「日大全学共闘会議」が設立され、
議長は秋田明大21歳であった。参加する意思のある者だけが参加する、自由
二に参加という従来のセクトにまみれた学生運動と全く異なる新しい学生運動
のは始まりだった。秋田明大は当時、経済学部4年だった。どこのセクトにも無
縁で温厚なまとめ役として期待された。議長に選任され、その名は全国にひび
きわたった。東大全共闘と並ぶ、全国学園闘争の天王山の火蓋は切って落と
された。

 最初は数人の抗議活動が書くも拡大したのは右翼学生が日本刀をもって
抗議の学生に襲いかかるなどの蛮行の限りに一般学生が憤りを持ったから
である。バリケードに木刀、チェーン、角材、日本刀をもった右翼体育会系学
生が襲撃を繰り返した。あまりの右翼学生の暴虐ぶりに機動隊が来た時は
、右翼学生を捕縛に来たのかと思ったら全共闘運動の弾圧と分かって、悔し
涙を流して抵抗する学生も多かった。6月11日のことである。

 だが右翼体育会学生、機動隊導入はますます学生を全共闘運動に結束
させた。遂に全共闘学生は防御のためヘルメット着用となった。この日、法学
部を皮切りに学生運動史上最強とされたバリケードストが始まった。

 9月30日、日大闘争は遂に3万人にも及ぶという学生が理事たちを包囲し、
大衆団交、大学側を全面屈服させた。あまりの多数に参加は崩落すると危惧
されて、下に学生は降りるよう全共闘リーダーから要請があったが、一向に
動く気配はない。その歴史的瞬間を離れたくない、なかったのである。怒号と
歓声、紙吹雪が舞う仲学生たちは勝利に酔いしれた。ここまでの完全勝利は
学生運動史上見当たらない。

  
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 だが一気に翌日暗転した。佐藤栄作の「大学問題を治安問題として対処す
る」との宣言で事態は一変した。『集団暴力は許さない』であった。一気に弾圧
強化され、ターゲットとなった秋田明大も公務執行妨害の疑いで逮捕される。

 一貫してリーダー役を担ったのは秋田明大である。

 全共闘終焉後、今度は新左翼諸派が学生運動をとりしきった。一般学生は
姿を消したのである。


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