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zoom RSS クルト・グラーザー(日本美術研究家ユダヤ人)の足跡

<<   作成日時 : 2017/10/03 18:07   >>

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Curt Glaserは医者であり、日本美術研究家でもあるユダヤ人であった。
明治44年、1911年来日している。当然、日本美術、さらに芸術研究が目的で
あったはずだ。クルト・グラーザーは美術関係では富岡鉄斎、文学関係では
木下杢太郎において想起されることが多いらしい。「富岡鉄斎に最初に会っ
た外国人」という位置づけである。
 
 かってその昔、NHKのBS「富岡鉄斎ー最後の文人画家・仙境への旅」当時
ハイビジョンで放送された。

 グラーザーはその名前は「鉄老斎抄録」という表題の付いた雑記帳に出てく
る。

 『明治44年11月5日、佐伯医伯拉独逸人夫妻 訪余・・・・・・・』と書き込んであ
る紙は和紙に菊の花を色刷りしたお菓子やさんの包み紙である、このとき鉄斎
は76歳、多分、大切にシワを伸ばしてしまいこんでいた紙ではないか。この、い
わば鉄斎の「捨てられない」癖で、訪問の翌日に届いた都ホテルの便箋に英文
で綴られた礼状も、つぎのページに貼り込んでいる。

 この時鉄斎は自分の写真、詩、扇子二本を贈呈し、グラーザーはベルリン博
物館の案内の小冊子を鉄斎に渡した。さらに帰国後、グラーザーは

 「レンブラント画譜一巻、彩色画譜十帖、耶蘇一代記画帖等を贈り来たり、ま
た鉄斎の耳の遠いのを憐れんでグラモフォンと云う聴音機まで送って来た」

 グラーザーは1879年、ライプチヒ生まれ、1902年、ミュンヘンで医学の学位取
得、1903年、エルザと結婚、芸術を愛好していたエルザ夫人の影響で、グラーザ
ーも芸術への関心を高めた。

 グラーザーがなぜ日本に来たのかといえば、・・・・・・・

 鉄斎訪問時、1911年においてグラーザーは32歳、ベルリン博物館の研究員で
あった彼は、すでにいくつかの日本美術紹介の論文を書いている。1908年には
「日本絵画における空間表現」、1909年「ベルリン王立芸術博物館での日本美
術展覧会」1910年「日英展覧会での日本美術」などを矢継ぎ早に発表している。
グラーザー来日のバックボーンはヨーロッパ、とりわけ独における日本学研究の
高まりがある。日英博覧会1910年も刺激になったのかもしれない。

 ★グラーザー来日はいつ?

 これは正確には分からない。日本で鉄斎よりも前にグラーザーに会ったのは
、学生時代の木下杢太郎である。1911年4月11日の木下の日記のその夫妻の
名前が登場している。木下杢太郎がグラーザー夫妻とともに、毎日のように日
本美術、歌舞伎などを鑑賞するさまがなかなか興味深く描かれている。「木下
杢太郎日記」第二巻、この年の日記は6月16日で途切れていて、その後11月5
日にグラーザーが鉄斎を訪問するまでのその足取りは分からない。

 では帰国はいつか?といえば推定になるが1912年2月以降と思われる。それ
はケルン東洋美術館に保管されている鉄斎の掛け軸の賛に書かれている日付
。そこに明治45年(1912年)2月」とあるからである。「東アジアの芸術」というグラ
ーザーの著作がライプチヒから出版されたのは1913年、その前年にも「日本の
美術商人」という論文を独逸美術専門誌に寄稿している。

 その後のクルト・グラーザー

 こののち、ベルリン芸術図書館の館長となり、1924年、ムンク、ベックマン、な
どと親密に交わった。グラーザーの宿舎はベルリンの「最後のサロン」と呼ばれ
る知的交流の場となった。

 1934年夏、この宿舎はユダヤ人としてゲシュタポに接収された。ユダヤ人追放
の憂き目でグラーザーは退官させられている。

 1936年から39年にかけれフィレンツェ滞在。1941年、ハバナ経由でアメリカ亡
命、1943年、ニューヨーク州nレークプラシッドに移り、同年11月23日、死去。

 ベルリンにあったグルーザーの宿舎は戦火で崩壊した。其の上にベルリンの
壁ができたという。

 

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