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zoom RSS ハンセン病文学の先駆者としての北条民雄

<<   作成日時 : 2017/09/21 11:16   >>

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 ハンセン病文学とは現代に言い方であり、かっては癩文学と称されていた。
この癩病の癩とは誠に忌まわしいものであり、社会的偏見、差別、汚物以下
という意味合いの集約でさえあった。そこでもはや癩文学とは差別の象徴と
いうべき表現であり、もう使用は許されないと思うが、紛れもない歴史的事実
として否定しきれないのである。

 ハンセン病文学をどう考えるのか、もちろんハンセン病患者の創作に因る作
品軍ということである。近年、皓星社から「ハンセン病文学全集」全10巻という
金字塔というべき出版の快挙が挙げられる。膨大な作品の中の一部ではあっ
ても、世界文学の中の一つの山脈として聳え立つべき文学である。

 だが歴史的にハンセン病文学を顧みると中世の「弱法師(よろぼうし)」とか
「摂州合邦辻」,明治以降は幸田露伴「対髑髏」、「生田葵山「団扇太鼓」などが
が挙げられるにせよ、ハンセン病患者を対象としていてもハンセン病文学とは
いえない。癩文学としては島木健作「癩」は著名であるし、誠に深刻であるが、
本質的なヒューマニズムを含有していない。ハンセン病文学は、やはりハンセ
ン病患者の限界状況の血の叫び、からでた文学の滴り、ほとばしり、しかあり
得ない。

 島木健作の「癩」を読んだ北条民雄はこう述べてもいる

 「あの作中のレプラ患者のザマなぞ、もう自分には日常的な出来事に過ぎ
ぬ。が、僕の鈍感にのみ、この迫真性の欠如が帰されないとしたならば、それ
はこの作者の失敗であろう。思想上の苦悩を描くに苦しみぬいた作者が、それ
に捉割れ過ぎたため、現実的な肉付けが出来なかったのだろう」

 ハンセン病への真実味のある認識の決定的に欠落した島木健作であった


 清原工(フリーライター)は北条民雄がこの島木健作の作品を失敗とみなし
ているのは「これは一種のライバル心理ではないか」と書いているが誤って
いる。ライバル心理など別世界の人間に持ちようもないし、事実、北条民雄
が島木健作の作品を読んで「失敗」とみなすのは当然である。文学的高み
の違いである。

 全生園で同じ時期を生きた光岡良二氏はこう書いている。

 「川端康成氏に最初の手紙を送ったのは、昭和10年8月12日である。当時
、北条はそのことを、私にも他の文学仲間にも全く秘していた。そればかりか
彼の日記を見ても、何お記載もない。その8月12日の日記は『数日前からフィ
リップの《若き日の手紙》を読み始めている。なんていいんだ」との書き出しで
、一言半句も、川端氏に送る手紙は書いていない、・・・・・・ところが川端氏か
らの返事はなかなか来ず、二ヶ月経ってほとんど彼が望みを失った10月半
ばになって届いた」

 北条民雄と川端康成の邂逅こそが実に日本のハンセン病文学の始まりと
私は考える。もちろんハンセン病文学はあったが、社会的実在には達してい
なかった。

 川端康成は

 「なにかとお書きになることが、あなたの慰めとなり、また生きる甲斐ともな
れば、まことに嬉しいことです。

 御手紙のようなお気持ちは尤もと思いますが、現実を生かす道も創作の
うちにありましょう。文学の御勉強をお祈り上げます」

 言うまでもなく周知の事実であるが、北条民雄は「癩文学」と称されること
を何よりも嫌った。癩という言葉にまとわりつく不快な汚物めいた意味合い
が嫌でたまらなかったのは当然としても、北条民雄にすれば「癩文学」などあ
り得ない。「だったらドストエフスキーは癲癇文学というのか、夏目漱石は胃
病文学というのか!」でそれはそれで正当性は持ち得ても、ただその病によ
る社会的状況はtの疾患とは比較できにくいことも確かである。

 「ハンセン病文学全集」の編集委員、筆頭の加賀乙彦しが北条の作品を
収録した第1巻に書いておあられるが、

 「ハンセン病文学とは何かとことごとしく、この場で論じようとは思わない。
ただ、小説の領域について私が言えるのは、ハンセン病文学とは、ハンセン
病療養収容所に強制隔離された人たちの作品であるということである。将来
、あるいはそれ以外のハンセン病患者以外による作品が発見されても、今の
とこロはこれでいいと思う。

 一言付け加えれば、病気でない人がハンセン病について書いた小説は、し
ばしば過度に病気の悲惨さや治癒の困難を強調するフシがある。特に戦後
、1950年代にプロミン治療で患者が全治した後も、「らい予防法」の終生隔離
の人権無視に対して「元患者」たちが解放運動に立ち上がっているときに、ハ
ンセン病の不治を強調し、・・・・・・元患者たちの運動に水を差したり、誤解を与
えたりした事実がある。・・・憐憫と思いながら無意識的な加害行為となっていた
文学についてはこれから考証が必要であろう」

 ハンセン病文学の小説で、単行本による初めての出版は北条民雄であった
。その意味でまさしく北条民雄こそがハンセン病文学の先駆者、とはいえるで
あろう。しかしハンセン病文学における北条民雄の偏重の弊は改めなければ
ならないと私は思う。

 北条が最初に世に出したのは1935年「間木老人」、「文學界」の11月号に
掲載された。これは好評で。1936年同じく「文學界」に「いのちの初夜」が掲載
され、これが「文學界賞」を受賞し、北条民雄の名はいちやく世間に知られる
ところとなった。まさしくハンセン病文学の夜明けであった。川端康成の推挙、
後押しがあればこそである。ハンセン病文学が夜に出たことの功績に川端
康成がいたことは文学史上、銘記されるべき事実である。

 ハンセン病患者は癩者と唾棄され、忌み嫌われ、危険な病原菌を持って
他人を感染させる存在とされて療養所に一度強制収容されたら、一生娑婆
にはでられない無期刑の囚人のような存在であった。

 隔離と不治の苦悩、命の家限界状況から生まれたのが北条民雄の作品
であった。実は北条は一作だけ療養所街の環境を描いた小説を書いている
。東京を舞台に転向者の疎外を描いたものであり、都会で生きる主人公を
描いたものだ。ハンセン病患者による一般社会を舞台にしたものであり、独
自の価値を持つ。だがリアリティは不足しており、ハンセン病を描いた作品ほ
どの文学的価値は持っていない。

 光岡良二氏による北条民雄の臨終、死を描いた文章である。

 「その後の二時頃、不覚にも眠ってしまった私は、ふと私を呼ぶ彼の声に
びっくりして飛び起きた。彼は痩せた両手に枕を高く差し上げ、しきりに打ち
返しては眺めていた。なんだかひどく興奮しているようであった。どうしたと
覗き込むと、体が痛いから、少し揉んでくれ、という。・・・・・・・彼は血色のい
い顔をして、眼はきらきら輝いていた。こんな晩は素晴らしく力が湧いてくる
、どこからこんな力が出るのか分からない、手足がピンピン跳ね上がる、君
、原稿を書いてくれ、というのである。いつもの彼と容子が違う。それが死の
直前の最後に燃え上がった生命の力だとわたしは気づかなかった。俺は恢
復する、おれは恢復する、おれは恢復する、断じて恢復する・それが彼の最
後の言葉であった。・・・・・」

 短い生涯であったが北条民雄はまず、燃え尽きたといってよい、文学的
功績を残し、それがハンセン病文学の真の歴史の始まりとなった。

 だが北条は自らの作品、全てに不満であった。フローベール書簡の言葉
を真似て、自分の得た名声など「怪しげな名声」とシニックな口調で自嘲し
ていたという。

 北条民雄と誰よりも友人として交わり、その死を看取った光岡良二しはこ
のような感慨を述べている。

 「彼が死んでしまった今、私にはそれらの作品も新進作家としての文壇の
評価も、一様に影の薄い,空しい者に思われてくるのであった。確かにある
ものは、癩菌と結核菌に蝕まれ尽くした、土気いりに皺ばんだ亡友の死体
だけであった。私は自分が彼にとって結局よい友人ではなかったことをはっ
きりと感じないわけにはゆかなかった」

 まことに酷薄なる真実であろう。


   1914年、多摩全生園に建てられた男子独身寮  山吹舎


  
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