つぶやき館

アクセスカウンタ

zoom RSS 「無言館」戦没した美術系学生の遺作が語りかけるもの

<<   作成日時 : 2017/09/20 11:23   >>

トラックバック 0 / コメント 0

 
画像
上田市にある戦没、あるいは戦争に関連して没した美術系学生の遺作
の展示、保管を行っている、なんともユニークで訴えかけるものの深い美
術館である。ドアも人一人、やっと入れるもの、中に入るとその照明は暗く、
荘厳にその展示作品が浮かび上がる。

 戦争に明け暮れ、莫大な戦費を使い、国民生活を困窮のどん底に突き落
としても戦争自体が目的化してしまった戦前の日本では、まさに根こそぎ動
員が行われた。

 現在の東京芸術大学の前身の一つである東京美術学校之油絵科を卒業
し、出身地の熊本で中学教師をしていた佐久間修(当時29才)、親の住む実
家で妻と二人の子供との平穏で幸せな日々を過ごしていた。だが戦時下も真
最中であり、不安は召集令状だけであった。で、現実に赤紙は舞い込んだ。
それは検査の前日に醤油を多量に飲んで何とかクリアーできた。だが1944年、
昭和19年10月25日、生徒を引率して勤労奉仕に向かう時、大村市でB29の空
襲にあい、生徒十数名とともにこの世を去った。

 静子夫人のもとには夫人をモデルとした肖像画と裸婦像之スケッチが残され
ていた。去るものは日々に疎師であっても、その作品は厳然とその心を語りか
ける。若い画家の鋭敏な感性はその画の中にいつまでも訴えかけてくる。

   
画像


 佐久間修の東京美術学校の後輩の野見山氏は「生き続けてどれだけ絵を
描きたかっただろう」と惜しむ。多くの美術学校の学生達、その出身者が戦没
した。御自身は1943年、昭和18年、卒業するとすぐ満州に。そこ寒冷な地で
肋膜炎を患い、入院した。だが入院して命拾いとも言えた。多くの美術学校の
出身者が次々に戦地に送られ、およそ無意味な戦没をしていた。

 「卒業までしか画を描けないなんて)と無念の思いを語る。全ては志半ばで
あった。例えば昭和18年8月にジョージア島近海で戦没した中川勝吉は24歳
だった。なんとも不器用な重厚さで裸婦を描きながら、「煙草の吸殻でも拾って
いいからパリで暮らしたい、いつが小学校で教えて子どもたちと絵を書きたい」
と言っていたという。

 爽やかで気風がよく美術学校の人気者だった中村万平は、太い荒々しいタ
ッチで絵を描き、感歎させた。彼は出征前に卒業制作のモデルとなった女性を
つれて故郷の浜松に帰った。彼女は妊娠していた。中村は戦地から彼女に宛
てて、「俺に代わって親孝行と子育てを頼む」と書いた。昭和17年2月に愛児は
誕生したが昭和18年8月、華北で戦病死した。野見山氏も憧れていたという。

 「一生絵を描きたいと願って戦没した若者には必ず誰でも説得できるような
光り輝く作品が残っている」という。

 「無名の戦没した美術系学生、卒業者の声を伝えることが、同時代を生きた
私達の責任です」

 野見山暁治氏は昭和49年放送のNHK「祈りの画集」で遺族を訪ね、その無
念の声を聞いて回った。若くして去った、戦没を余儀なくされた若い画家たちの
作品を見るたびに、これらを一堂に集め、保管、展示したい、と思うようになっ
た。この話を聞いた上田市の信濃デッサン館の窪島誠一郎氏が「ぜひお手伝
いしたい」と話して、遺族とともに消えてしまうかもしれない絵画を救うことを決
意したのである。

 野見山氏と窪島氏は二人で遺族を訪問して周り、遺作を集めることへの理解
を求めたが資金の寄付は困難を極めた。上田市から信濃デッサン館にちかい
土地を提供され、1997年5月2日「無言館」は開館した。

 野見山氏は「このような美術館こそ真の美術館だ」としみじみと語る。多くの人
の来館をまた願ってもいる。


   
画像



  

月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
「無言館」戦没した美術系学生の遺作が語りかけるもの つぶやき館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる