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zoom RSS 「死出の道艸」管野スガ

<<   作成日時 : 2017/08/05 15:57   >>

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1911年(明治44年)1月25日、管野スガは前日に男性死刑決定者の
死刑執行が行われたことも知らされず、死出の旅路についた。事件は
明治以降の近代天皇制の暴力の象徴であり、極度のフレームアップが
行われた。処刑直前、管野スガは「われ、我が主義のため死す、万歳」
と叫び、すぐに死刑執行された。

 管野スガが獄中で書いた手紙、回想録は処刑後長く所在が不明であ
ったが、神崎清氏が昭和22年7月、雑誌「真相」を発行していた人民社
の佐和慶太郎氏を訪問した際に、人民社の金庫の中から発見した。終
戦後、佐和慶太郎氏のところに得体の知れない二人が訪れて、書類の
束を売り込みにいたので買い取ったものであったという。

 処刑36年後、奇蹟的に蘇った管野スガの「死出の道艸」であった。

 明治専制政府に老いても死刑判決がでても執行までには三ヶ月ほど
の猶予があったが、大逆事件は王政復古!の暴力を見せつけるべく、
無関係な冤罪を生む中でわずか六日から七日後に死刑が執行された。

 「死出の道艸」には「死刑の宣告を受けし今日よりこ絞首台に上るまで
己を飾らず偽らず自ら欺かず極めて卒直に記し置かんとするものなれ」
との序文がある。続けて1月18日から24日まで、日記の様に綴られてい
る。

 その初日、1月18日、処刑の七日前の記述は、あまりの無法きわまる
判決への激しい憤りが述べられている。だが現実にはそのような滑稽
を演じた他の死刑囚もいた。

 

 「今此判決を聞くと同時に,余りの意外と憤怒の激情に、私の満身の血
は一時にかっと火の様に燃えた。弱い肉はブルブルと慄えた」

 その翌日、1月19日は気苦労や疲れのためであろうか、ぐっすり寝て
「今日は心地がすがすがしい」と記されている。

 この時点で形見分けも始まっている。この日訪れた教誨師に、宗教上
の心の慰安を得るように勧められても、

 「私は此上安心の仕様はありません、と答える。絶対に権威を認めな
い無政府主義者が、死に当面したからといって、遽かに仏陀という権威
に縋って、被めて安心を得るというのは些か滑稽に感じられる」

  だが現実にこの滑稽を演じた他の死刑囚もいた。

 「私は、我々の今回の犠牲は決して無益ではない。必ず何等かの意義
ある事を確信して居るのである。ゆえに私は絞首台上の最後の瞬間まで
も、己の死の如何き貴重なるかという自尊の念と,兎にも角にも主義の犠
牲になったという美しい慰安に包まれて、些かの不安、煩悶なく、大往生
が遂げられるで有うと信じて居る」

  死刑判決を下されながら、二日後にはもう既に冷徹に自分を見つめ、
最後の瞬間をどう迎えるか、とこれも冷徹に考えているのである。

 その翌日、1月20日は堺利彦から葉書を受け取ったために、多くの雑念
、迷いを振り払えないでいる。この世に対する未練が「英語をついにモノに
できず終わることへの後悔」という文に現れている。

 「思うたまま、何だか書きっ放しにするのだから、あとで読み返すと支離
滅裂で、難だか寝言でも並べて居る様で我ながら厭んいあんる。もう寧そ
何も書くまいか、など考える」

 処刑四日前の1月21日の日記は長い。11月に幸徳秋水に会うために上
京し、急死した秋水の母,・・・・・管野スガには姑、・・・を懐かしんでいる。

 あゝ、人生は夢である。時は墓である。凡てのものは刻々に葬られてい
くのである。葬られた人の追想になく自分やがて葬られてんとして居るの
である」

 声にはたとえ出さなくとも、彼女は心の中で号泣していたはずである。し
かし生きている間に事件の真相を後世に伝えねばならない、と決意した
様であり、その先は長い。

 「此の事件は無政府主義者の陰謀也、何某は無政府主義者也、若しく
は何某は無視エフ主義者の友人也、故に何某は此陰謀に加担せりとい
う、誤った、無法極まる三段論法から出発して検挙に着手し、功名、手柄
を争って、一人でも多くの被告を引き出そうと苦心惨憺の結果は、終に、
詐欺、ペテン、強迫、甚だしきにいたっては、昔の拷問にも比しいウツツ
責同様の悪辣極まる手  段をとって、・・・・・・総て此事件に結び付けて了
ったのである」

  1月22日、処刑3日前、もう死を覚悟し、実感した彼女の真情のが胸を
うつ。

 「悪の極か聖人の極なら別問題として、感情の器である普通の人間に
、些かの偽りなしに飾りなしに其様な無神経で居られよう道理がない。私
は小人である。感情家である。而も極端な感情家である。私は虚偽を憎む
。虚飾を悪む。不自然を悪む。私は泣きもする。私は笑いもする。喜びも
する。怒りもする。私は私丈けの天真を流露して居ればよいのである。
人が私を見る価値如何などどうでもよい。私は私自身を欺かずに生を終
えればよいのである」

 1月23日、処刑二日前、彼女は処刑判決を受けた24名中半数が助け
られたと聞いて喜んだ。最初から罪があるの恥分を含め、四名にすぎな
いと主張していたからである。

  「どうか私たち、三、四人を除いた総てを助けて貰いたいものである
。其代りになる事なら、私はもう逆磔刑の火あぶりにされようと、背を割い
て鉛の熱湯に注ぎ込まれようと、どんな酷い刑でも喜んで受ける」

 だが翌1月24日には同志、11名が次々と絞首刑に露と消えた。日没で
彼女だけが翌日になった。その日、予感からか彼女は多くに手紙、葉書
を書き送っている。

 1911年1月25日午前8時28分、巻のスガは「われ主義のために死す、
万歳」と叫んで永遠の旅立ちをしたのである。


 近代天皇制のいけにえとされた12名の生命であった。


    参考文献:管野須賀子全集、黒岩比佐子「死出の道艸を読む」






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