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zoom RSS 「死んで生きよ」の人生哲学、「白昼の死角」より

<<   作成日時 : 2017/08/01 21:38   >>

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 いうまでもなく「白昼の死角」は高木彬光による傑作社会推理小説である。
戦後のどさくさの時代、東大法学部の学生であった主人公、鶴岡七郎が、
法を巧みにくぐって驚異の詐欺を繰り返す、いわば犯人の側から描いた
推理小説である。だが単にその詐欺の手法より、その時代背景を見事に
描ききった人間の内面に切り込むその深みは松本清張を凌駕するであろう


 ストーリーはまず終戦後、東大法学部の学生、隅田光一、モデルは実在
の山崎晃嗣、・・・・、高利貸しとして莫大な金を集めた挙句破綻し、自殺し
た、・・・・・・である。その仲間であった主人公、鶴岡七郎が頭脳をしぼって
の詐欺犯罪の記録でもある。鶴岡七郎も当然実在である。いつか週刊誌
の取材に応じて「高木彬光氏は法学部の出身ではないのでやはり記述が
甘い」などとコメントしていた。それほど、まあ、頭が切れる男ということであ
る。半端でないのである。だがそれが詐欺では褒められた話ではないが。

 だがその中で印象深い部分がある。鶴岡七郎らが金融王の金森光蔵と
いう人物を訪問する下りである。これは非常に感銘深い部分にもかかわら
ず、映画の「白昼の死角」では全くの逆の拍子抜けのあきれたシナリオで
あり、誠にお粗末極まる話である。

 鶴岡七郎が隅田光一(山崎晃嗣)に誘われて高利貸しの金融王、金森
光蔵を訪れる場面である。

 「死んで生きよ」とは沢庵師の含蓄ある言葉である。多くの人がその
禅の言葉の真の意味を探ってきた。ここで「白昼の死角」での金森光蔵
の人生の辛酸、苦渋から得た「死んで生きよ」の言葉、

 『 光一は突然、彼に向かって、思いがけないことを言いだした。

 「鶴岡君、君は金森光蔵という高利貸しを知っているかね?」

 「名前だけは・・・・・」

 「あすでも会ってみようと思うんだが、いっしょに行ってくれないか?」

 「何のために」

 「僕たちは、いちおう物価統制令の違反でひかっかっているわけだね。
僕は金利は物価ではない頑張り通して帰ってきたのだが、この問題は
彼のほうが先輩になるわけなんだ。だから後輩としていちおう意見を聞
いておこうと思ってね」

  彼ほどの自信の強い男が、人の意見を聞こうと言いだしたのは珍しい
ことだった。これがあの手記を見る前だったら、七郎は光一も二十日間の
留置所生活でしっかり気が弱くなったーと信じたろう。
 女も大衆も、同志さえも、自分の目的の道具としか考えていない光一が
、ただ人の意見を求めるために、わざわざ出かけるわけはない。今度は
この人物を利用して、何かたくらんでいるんだろう、と七郎はそこまで推理
した。

  (中略)(金森光蔵の日本橋の一角にある事務所を二人は訪れた、光一
は何か失望したようで帰った。七郎だけ引き返して金森光蔵に再び面会
した)

 金森光蔵は静かにペンを置くと、鋭い視線を七郎の顔に浴びせた。

 「君も物好きな)男だな、いまの隅田君の話では、君たちの会社は、一時
の障害はあっても、日を追って発展の途をたどっているということじゃない
か。それなのに、そういう会社の重役の椅子をほうり出して、差し押さえを
食っているわたしのところへ、飛び込んで来ようと言いだしたのだ?」

 「あなたというお方の人物に惚れ込んでしまったからです。好き嫌いとは
どれほど違う。命ただやるほど違うーと歌の文句にもあるとおりです。」

 「そんあに質問をはぐらかすな。実のところ、君たちのほうにしたところ
で、二進も三進もいかないだろう。話を聞くというのは口実で、実際には
、金を借りにきたんだろう?」

 「実は・・・・・・そのとおりです」

 「うちにしたって、いま新しく人間を雇い入れるだけの余裕はない。いま
ここにいる連中に。どうして飯を食わせていくか、それだけで私はいっぱ
いだよ。」

 「何ヶ月でも、ただ働きで結構です」

 「ばかもの!わしが正当な働きに対して、報酬を払わない男だとでも
思っているのか?」

 雷が落ちたような一喝だった。さっき七郎が見てとっていた猛将らしい
一面がついに爆発したのであった。

 「君が歌の文句を引用したから、私は諺で答えよう。世の中にはただ
ほど高いものはない。君はこの文句をどう思う?」

 「・・・・・・・・」

 「投資家の立場に立って考えてみたまえ。月二割の利子で年に二十四
割、元金は三倍半になる計算だ。これだけの仕事は、株でもなんでも相
当な危険を伴う投機だよ。これを手ぶらで、君たちに代行してもらおうと
いうところに、一般大衆の甘さがある。まず、これから半年もすれば預か
ってりう元金ものこらず吹っ飛んでしまうだろうが、そのとき投資家大衆は
、ただほど高いものはないーという諺の意味をつくづく悟るだろう。金儲け
の技術をただで買おうとしたための当然の失敗だ」

 「・・・・・・・・」

 「それはまた君たちのも言える言葉だ。こうして大衆から集めた金を、君
たちはただ集まったくらいに思っているだろう。対象が多くなれば注意も
分散し、責任感もうすくなってくるのは人情だ。君たちはまだ若い。こうした
金を目の前にしたとき、酒や女への個人的な欲望が出るのは自然だが、
そういうただの酒や女が、後でどれだけ高くつくか、肝たちも間もなく悟る
だろう」

 「・・・・・・・」

 「君たちが金儲けのために金融をやりだしたのなら、それははじめから
間違っている。金儲けのために、金融業ほど遠回りの道はない。こういう
理屈が飲み込めるには、先ず十年はかかるだろう」

 「金森さん。それでは?」

 「まず死ぬのだ。死んで、そうして生きかえるのだ。切り結ぶ太刀の下こ
そ地獄なれ、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、ー。私にしたって何度も死
んできた男だよ」


 ここに猛将の一面が消えて、高僧の一面があらわれたのだ。』

 
  これは高木彬光の「白昼の死角」に於いて現れた「死んで生きよ」の
ひとつの表徴である。禅における「死んで生きよ」はそれはそれとしても
、私自身もまた何度も死んだ人間である。病気も深刻な病は一度や二度
ではない、家庭は商店街通りでも「あの家は特別」と蔑視される、およそ
賤民的な商売、汚らしい古民家、汚物のような両親の醜悪な生活。冷酷
な家族、言葉の障害の苦しみ、・・・・・・・・私はたしかに何度も死んでいる
。今生きていることは奇蹟である。それとていつ何時であろう。

 エピローグで鶴岡七郎が作者に送った手紙の一節

 「法は力、正義の仮面をつけていても決して正義ではないのです。私は
この十年の生涯は、力に対する力の闘争でした。そして鶴岡七郎という
人間は、その勝利に満足して死んでいったのです。

 それはもちろん、私個人の死を意味するものではありません。死んで
そして生き返るー。金森光蔵氏の教訓に従って、私まったく別人として
ふたたび別の人生へ第一歩を踏み出してきたのです。・・・・」

 何度も死ななければ人生はとうてい全うできるものではない。これは
今の私の実感である。死んで生きよ、・・・・・・その深い深い意味と人生
の限りない困難さを噛み締めてこれからも生きる以外にないのである。

 

 

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