つぶやき館

アクセスカウンタ

zoom RSS 大逆事件と「熊本評論」の歴史的意義

<<   作成日時 : 2017/08/12 22:32   >>

トラックバック 0 / コメント 0

 大逆事件100周年を記念しての彷書月刊の特集記事、その中の、「大逆事件
と『熊本評論』」である。これについては単行本も出ている、ここに書かれている
ように熊本は自由民権運動の先進地であり、大逆事件という事件の極度なフレー
ムアップでの犠牲者は熊本出身者に多く及んだ。

 熊本近代史研究会事務局長「廣島 正」氏による「大逆事件と熊本評論」


  2003年に「平民社百年と熊本評論」というシンポジウムが開催され、その際
「大逆事件に連座した熊本評論関係者の復権を実現すること」をその課題とし
て掲げたが、実際にはそれは進んでいない。その要因の一つとして、熊本が
、東京・大阪・神戸・新宮とともに幸徳秋水を貶めた大逆事件の拠点の一つであ
ったという実感が持ちにくいことも挙げられるだろう。

 熊本は明治3年、実学党政権により、維新がもたらされて以来、自由民権運動
においても、また国際主義的な活動においても、はたまたプロレタリア文学といっ
た方面に亘るまで日本を代表するような革新的な流れが継続して一方、それら
を封殺するかのようなかっての国権党的雰囲気が市井を覆っていることも確かな
事実である。実学党の指導者、横井小楠は十年前までは地方日刊紙が一切報じ
なかった。また『蟹工船』と並ぶプロレタリア小説の名著『太陽のない街』で知られ
る徳永直に対して熊本県が近代文化功労者として認めたのは、ようやく2008年
であった、。

 明治中期の熊本は、福岡・博多を倍する九州の中心都市であった。九州の政
治・行政はことごとく熊本から発せられていた。従って熊本の動向は,現在とは
比較にならないほど重視されていた。

 幸徳秋水の大逆事件において熊本から連座させられたのは、松本卯一太(
1879〜1911)、新見卯一郎、佐々木道元、飛松与次郎の四名である。松尾と新
美は死刑、佐々木、飛松は死刑判決後、無期懲役に。彼らは「大逆罪」とされた
のか。

  1908年、明治41年、11月23日と25日の二度、松尾卯一太は平民社を訪れて
いる。25日幸徳秋水は「こんな歳月を重ねておれば、必ず暴動が起きる。その
時、貧民を日比谷公園に集め、富豪を掠奪すればおもしろい」などと語ったが、
松尾は特に共感した様子はなかった。幸徳はその時、機関として新聞を発行す
るのであり、ついては「しっかりした人物を見つけておいてくれ」と話した。

 後にこれが武富済検事の松尾に対する聴取書で「しっかりした人物を人物を
見つけるというのは、無論、決死隊の士を募るという意味であろう」、「その決死
の士をして貧民を指揮して暴動」をなさしめ「皇室をも倒したい」と企てたという、
常軌を逸脱した拡大解釈に展開するのである。

 1910年、明治43年5月、宮下太吉らの検挙に始まり、この件を幸徳秋水を中
心とする全国的な天皇暗殺計画という具合のフレームアップ、でっち上げが行
われた。これがすなわち大逆事件である。松尾は先に述べたように、上京時に
幸徳と多少、話したに過ぎず,新美、佐々木、飛松は松尾から上京時の話を聞
いたにすぎない。だがあの悪名高い武富検事によってその捏造ストーリーが「
大逆事件」として公判に付されたのである。

【熊本評論とは】

  1907年、明治40年6月20日に創刊された半月刊誌である。一つが8頁の新
聞だてであったが、翌年9月、第31号をもって発禁となった。この「熊本評論」が
幸徳秋水らの直接行動主義、サンディカリズムの機関誌とい役割を果たすの
は第25号から最終号までくらいであった。それは森近運平が編集していた同じ
く直接行動主義の機関紙「日本平民新聞」が1908年5月20日に廃刊となったこ
とにもよるのであろう。この時期の「熊本評論」には、幸徳秋水を始め、大杉栄
、山川均、堺利彦、守田有秋らが執筆の文章が紙面を飾り、クロポトキンの「
将来の革命」などの翻訳も掲載されていた。同時に「東京だより」、『北海道だよ
り」、「大阪だより」など各地からの情報を紹介するとともに、熊本評論社で活動
を始めていた坂本清馬の「熊本だより」も連載し、地方紙の枠を遥かに超えて
いた。

 だが決定的だったのは赤旗事件についての取り組みである。赤旗事件とは
1908年、明治41年6月22日、山口孤剣の出獄歓迎会で閉会寸前、大杉栄らが
「無政府」、「無政府共産」などと赤布に白書きした旗を打ち振り、革命歌を歌
ってデモを始めた。戸外で警官隊と一時間近い乱闘となり、堺利彦以下,十数
名が拘引された。留置場でも大杉栄などが暴れたこともあり、殴打創傷罪、官
吏抗拒罪、治安警察法などで起訴された。

 早速、「熊本評論」第26号(7月5日)には、赤旗事件の第一報が掲載された。
「廿ニ日、無政府党の活動」と題して竹内善朔(東京)の寄稿で知らされている。
第27号(7月20日)では一面トップで熊本評論社名で「寄付金募集」を掲げ、幸
徳秋水は「海南評論」で赤旗事件に触れている。第28号、8月5日では金曜社
旧同人名の「同志諸君に訴ふ」が一頁を超えて大々的に掲載された。

  また前号の「寄付金募集」の記事が新聞紙条例違反で告発されたことを伝
えている。その頃,新美は上京し、8月15日の赤旗事件初公判も傍聴している
が、第29号(8月20日)では守田有秋が二頁にわたり、「赤旗事件公判筆記」
を連載している。第30号、9月5日では金曜社旧同人の筆記による第二回公判
、8月22日の模様が三頁に渡って掲載され、同時に堺利彦、山川均、管野須賀
子等の獄中の消息などで紙面は埋め尽くされている。

 

月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
大逆事件と「熊本評論」の歴史的意義 つぶやき館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる