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zoom RSS (再)荷風と浅草の踊り子、桜むつ子と戦後カストリ雑誌の終焉

<<   作成日時 : 2017/08/09 11:29   >>

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 現在は忘れされているが、戦後、、終戦後であるが数多くの大衆雑誌が
、それらはカストリ雑誌とも称されるが、・・・・・生まれては消えていった。そ
れはまさしく当時の焦土、何もない日本の苦しみから生まれた精神のエネ
ルギーのほとばしりであり、文化的意義も非常に高いが、ほぼ全てが散逸
している。それはその時代の庶民の生活、感情、意識を現しており、また
当時の文学作品の発表の舞台ともなっているのである。

 「りべらる」に宇野浩二が書いている。

 〈「並々ならぬ才人と云えば、太宰治、織田作之助などがそうである。太宰
の、これも評判になったらしい中篇小説を読むと「朝、食堂でスウプを一さじ、
すっと吸ってお母さまが『あっ』と幽かな叫び声をお挙げになった」という所か
らはじまって、それからスウプについて、ながながと述べられているのである
。・・・・(太宰を引用)  と、ここまで写してみたが、すこしアホらしくなったの
で,うつすのを中止した・・・・)

 これは宇野浩二の『現代流行作家の文章』の一節であり、掲載誌は「りべら
る」第三巻第五号(昭和23年5月)である。

 さて永井荷風である。

 終戦後、多くの大衆雑誌が創刊、復刊した。その中で『浮沈』、『踊子』、『
勲章』など、やつぎばやに作品を発表した永井荷風は『四畳半襖の下張』
の作者ではないかと噂されると思えば、下駄履きで浅草の踊り子のもとに
通いつめ、その踊り子のために芝居の脚本を書くなど、まことに終戦後の、
戦後史を彩る作家であった。

 ところでその脚本が慶された雑誌は小説世界社発行の『小説世界』である。
昭和23年7月号が創刊号であり、『停電の夜の出来事』は24年4月号掲載、
さらに『春情鳩の町』は昭和24年7月号に掲載である。

 どのよう傾向の雑誌であるか、昭和24年7月号のその他の目次を見ると

 川口松太郎の『雨の桜家』、林房雄『生かすに忍びず』、藤沢たけ夫の
『手術』、坪内士行『島国育ち』、丹羽文雄『逃げた魚の心』、池田道子『時
代の貞操』、田村泰次郎『肉塊』

 あとは豆講談などの短文であり、至って大衆読み物雑誌であることは分
かる。

 その合の「編集のあとがき」で,こう書かれている。

 《ひとえに読者の皆様のお陰で目出度く順調に一周年記念号の編集を終
わりました。第二年目の発足にあたり、更に皆様のご支援を本社一同より
お願い申しあげます。

 本号では再び永井荷風先生から書下ろし「春情鳩の町」をいただき、巻頭
を飾ることが出来ました。先生の麗筆は益々冴えて墨東の私娼窟にしみじ
みとした人の心の切なさを感じさせずにはおきません。4月号の「停電の夜」
に引き続き、またまた本誌でのヒットです。この作は早速浅草で脚光を浴び
ています。》

 B5版の雑誌の巻頭で9頁んわたっており、多色刷りの東光寺啓の挿し絵
六葉で彩られている。

 永井荷風が通いつめた踊り子と、荷風による脚本の芝居が上演されたその
頃の浅草の軽演劇界は[実話倶楽部]第一巻四号(昭和24年11月、実話読物
社)の伊谷南八郎の『荷風をめぐる女たち』によるとこうである。

 《浅草は常盤座、大都劇場、ロック座、安木節の木馬館に浅草小劇場、もう
一つ大きなもので国際劇場、と六つの楽屋のどこかに荷風大人がお通い召さ
れているかというと、戦後から今年春頃まで、常盤座の楽屋で只今のところは、
大都劇場の楽屋というわけ、戦後四、五年も通った常盤座を大都劇場に変え
たという理由はかんたんであり、常盤座に桜むつ子がいなくなったからである。

 現在、大都劇場に桜むつ子がいるのは、もちろんですが、・・・・木戸新太郎
一座が彼女の振り出しで、通常キドシンと呼ばれる座長の細君であった。

 この一座が浅草六区に現れたのは昭和21年のことであり、木戸新太郎一座
楽劇団と少子、座員はこのご夫婦とその他四、五人からなる一座で歌と踊りと
芝居を一応こなす彼女をプリマドンナにして夫のキドシンのあちゃらか芝居が
売り物であった》

 ところがキドシンが、新東宝の斎藤寅次郎監督の映画に出演することになり
、一座のものをさしおいて、、撮影所通いをするようになったのは昭和22年で
ある。細君の桜むつ子でなく、一座の庭野千草を引き連れての撮影所通いで
あった。

 《座長のいない一座なんてあるわけない、。当時、大都劇場に出演していた
この一座は自然解散となった。一人ぼっちになった桜むつ子は大塚辻町にあ
る彼女の母親のいに二人で引きこもり、しばらく舞台を休んでいた。

 当時、常盤座をはじめ、ロック座は云うにおよばず、裸レビューの真っ盛りで
あり、ヘレン滝、メリー松原の両裸女の名が盛んに売り出されていた。

 その一方で、健全なる軽演劇の名のもとにロック座には伴淳三郎を座長に
ショウ東京ロックが旗揚げし、大都劇場には高屋朗、森八郎などの劇団美貌
が生まれ、常盤座だけがヘレン滝の裸一本であった。ここも松竹の肝いりで
文芸部は高清子、稲葉正一、桜むつ子の劇団新風俗が結成された。

 これが桜むつ子の今日の始まりである。唄と芝居のできる彼女は常盤座で
重宝されて、メキメキと売り出した。

 実は荷風は高清子のファンで日毎に常盤座の楽屋に通っていた》

 その高清子の紹介で荷風は桜むつ子と親しくなった。結局、桜むつ子の所
ばかりに通うようになった、・・・・とこの文章は続いているが、それは大間違い
であり、桜むつ子は劇団新風俗に入る前に伴淳のショウ東京ロックにいて、
荷風はその頃から既に桜むつ子のところに通っていたのである。

 桜むつ子が大都劇場に移ったのは劇団新風俗が潰れた後で、荷風の芝居
を上演したのは大都劇場である。

 なお雑誌「小説世界」が唯一の巨大な取次店「日配」が閉鎖されて踏み倒さ
れ、更に不況到来のダブルショックで倒産した、多くの大衆雑誌、カストリ雑誌
がこのとき、廃刊となった。昭和24年末までにはほぼ姿を消している。


    
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