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zoom RSS 「斬」綱淵謙錠(直木賞受賞)はいかにして書かれたのか

<<   作成日時 : 2017/08/07 19:18   >>

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綱淵謙錠が、三期ぶりの直木賞の受賞、それまで該当作なしが続いて
いたが、満場一致で選ばれたのは昭和47年、1962年である。綱淵謙錠、
1924年、大正13年9月21日、樺太で生まれる。1943年、昭和18年,旧制の
新潟高校入学、この時にロシア文学、さらにT・S・エリオットに夢中になった
。後年、中央公論社でもエリオット全集の編集、出版の中心となったことに
つながっている。東大入学も資金が続かず退学、また復学。卒業後、中央
公論社に入社、谷崎潤一郎全集、T・S・エリオット全集の刊行での功績は
大きい。退社後は日本ペンクラブの事務局長に招聘され、国際会議の準備
のため閣議に提出の書類作成に尽力、その功が認められたのかどうか、直
木賞受賞、受賞作は「斬」(ざん)漢字へのこだわりがあり、漢字一字の作品
が多数ある。処女作でもある「斬」について綱渕は以下のように語っている。
(歴史時代小説への傾斜は編集者時代に子母沢寛の担当になり、「新撰組始
末記」の影響が大きという)

  私の処女作で、前半生の総決算」とする一方、「この本を読んでいただきたいのは、国家に傷つき、隣人に傷つき、友人に傷つき、父母に、子供に、恋人に傷つき、それでもなお何かを信じてじっと耐え忍んでいる方々である。その耐え忍びのために心の臓から滴り落ちる一筋の血の色が、この作品の中の血のいろどりと重なり合って同じ色であることが分かっていただけたなら、私のこの作品を書いた意図は十分に酬われたと言えるであろう」と語っている。

 だが題材は「首斬り」である。よほどその方の趣味がないと、現代の感覚と
はあまりに対極にある。端的に言えば「斬」に描かれるのは斬首の具体的な
記述である。解剖学的ともいえるし、取り乱した足にすがりつく狂乱の女性の
斬首刑対象者、・・・江戸の元禄から明治14年の斬首刑の廃止まで山田一族
は、七代に渡り、この仕事を続けた。だがこれは山田家の決して本職ではな
く、試刀家としての最高の地位を与えられったことの、いわば反射であった。
七代で山だけは富を築いた。しかし,地位は高くとも「浪人」の立場に終始
したのである。斬首の仕事は決して名誉ではない。本来は町奉行同心の仕事
であった。だが、誰にとってもやりたくない仕事、その嫌がる同心に代わっての
山田家の忍従であった。後述だが、四谷の質屋での当主に聞いた「斬首した
刑死者の肝臓を質に入れに来ていた」という話をベースに綱淵は斬刑後の
試し切り、肝臓を抜き取り売買の自由を得ていた、役得であった、と推測して
いるが、斬首執行者という忌まわしい役職に耐え抜いた一族の陰鬱が、こ
の作品のテーマでもある。

 だが「斬」は250年にわたり、首切り役人の家系として存在した山田家の
苦悩と崩壊の過程を描ききったものであるが、そのきっかけは綱淵謙錠自身
がこのテーマを思いついたのでなく、「新評」という雑誌社の社長の発案であっ
た。

  「斬」を連載したのは雑誌「新評」新評論社出版部、その連載時の編集長の
回顧談である。吉岡達夫。


 朱印にこめられた祈り

 三年ほど前(昭和47年執筆)ほど前のことだった。井上靖氏か、安岡章太郎
さんのお宅だったか、どちらであったか思い出せないが,その訪問後である。
その帰り、千鳥ヶ淵の近くの高速道を車で走っている時、新評社社長の御喜家
康正が突然、こう言い出した。

 「長沼弘毅さんからきいたが、、首切り浅右衛門を主人公にした連載小説は
どうだろうか。毎回読み切りで浅右衛門が首を斬った罪人を毎月、一人ずつ
登場させればおもしろいんじゃないか」

 この社長は時々、いいアイデアを出すのが常だった。私はどう返事をしたのか
忘れたが。これはなかなか面白いと思った。出、では書いて貰えそうな作家を考
えたふぁ、そこで綱淵謙錠君を思い浮かべた。

 その時から五年ほど前、私は笹原金次郎君が編集長をしていた「中央公論」
に「質屋の話」を書いたことがある。

  私の担当が綱淵君であり、綱淵君は取材のために南條範夫氏のお宅に案
内してくれた。南條さんは昔の質屋について、経済史的に懇切に話してくれ、大
いに参考になった。つづいて綱淵君は四谷の山本という古い質屋に私を連れて
行った。この店に話しを聞きに行ったのは、南條さんの指示であった気もするが
、はっきりとは覚えていない。大和屋は江戸時代から続いている老舗であり、四
谷の大通りに面して二棟の大きな土蔵がある。その一棟に、ねずみ小僧が入っ
たというのは有名であり、また天明か、天保か、どちらかの大飢饉で、店の主人
が土蔵に保管されていた官米を自分の責任で、飢餓に苦しむ人たちに放出した
ため、「お助け蔵」と呼ばれるようになったという。

 私も綱渕君も質屋の蔵の中に入ったのは初めてであり、天井を太い梁で組み、
その下に棚を巡らせ、質草を品目別に見事に整頓してあった。私は宇野浩二の
「蔵の中」を思い出した。

 さて話を戻すと、御喜家康正の話から綱淵謙錠君を思い浮かべたのは、彼が
浅右衛門の話に興味を持っていたから、それはその質屋で当主が面白い話を
、というので首切り浅右衛門を話してくれたからである。この店と目と鼻の先に
浅右衛門は住んでいたのだが、質草として浅右衛門が首切り役人への報奨と
して貰う人間の肝をしばしば持って来ていたというのである。程よく干しあげた
肝臓だったが、土蔵に保管するわけにもいかず、廊下の軒先に干していたとの
ことであった。・・・・・

 私が「新評」の編集を引き受けて間もなく,綱淵君が「偽官軍始末記」と題して
相楽総三のことを書いていて、その筆力に感歎したことがある。私は早速、綱淵
君に会って、浅右衛門を主人公とした小説が書けないか、話してみた。綱淵君は
喜んで、「書いてみましょう」と自信ある返事を行った。

 それから一年近くが過ぎた。その間、綱淵君に何度か会う機会はあった。。「浅
右衛門はどうなっている」と聞きたかったが、綱淵君が言い出すまでは、私から
は切り出さないようにしていた。必ず書いてはくれる、と確信していたが、その作
品は「偽官軍始末記」一作しか読んでないので、いくらか不安もあった。綱淵君
も慎重だった。私に会っても浅右衛門も話を言い出さない。かえって私は信頼で
きた。

 一昨年(昭和45年、1970年)の秋、綱淵君は三十枚ほどの原稿をもってやって
来た。連載の一回分にも足らない程度の量だった。私は百枚は書いてくると踏ん
でいたのでやや落胆した。まずは素人と思われても仕方がない人に連載を任せ
るのだから、これが中央公論社に20年も勤めている人間かと思うと、やや腹立た
しくもなった。

 分量は少ないがその三十枚の原稿を読んでみると、これは大丈夫だと安心で
きた。書き出しがまずいい。一気に三十枚を読んだ。予想していたより遥かに巧
い。読み終えたら最後に原稿の角に綱渕君の印鑑が朱肉で押されているのこと
に気づいた。ひどく野暮に見えた。素人っぽく見えた。ながく文芸担当の編集を
やっている人には見えなかった。だがその印鑑、実印であろう、朱肉の実印に
綱淵君の何か祈りのようなものが込められている、と思えてきた。祈りでなければ
自信だろうか。そんな気がした。

 あとで知ったが、綱淵君は樺太で生まれ、新潟高校から東大の英文科を苦労
して卒業している。旧制高校時代に地方の高校を出た人にはなかなか遊びの
上手い人がいる。ことに新潟は雪国で、美人は多いし、三業地の盛んなところだ
。綱淵君が高校時代、芸者遊びをしたかどうかは分からないが、相撲甚句の相
の手にしろ、八百屋お七の唄いっぷりにせよ、、だいぶん年期が入っていた。小
鉢を叩く時、割り箸を親指と人差指で軽く握る仕草はなかなかどうして、と感じさ
せる、堂に入ったものだった。

 「斬」の一回目の初校が出ると、綱淵君は自宅に持ち帰って校正した。ところが
綱淵君が校正した初稿を見て、担当の西野季男君がびっくりした。書き込みが
原稿用紙の分量で八枚近くある。これでは頁数が、二頁か三頁増えてしまう。。
私はその初校を西野くんから受け取って、しばらく見つめていた。

 綱淵君は『中央公論』や『婦人公論』と編集記者として長い経験を持っていた。
その間、幾度も作家や学者の書き込みに泣かされたなずである。二頁増えれば
、他の原稿で二頁だけ操作しなければならない。それを十分承知した上で、綱
淵君は書き込みをしたはずだ。自分の作品を良い物にするためには、編集者の
困惑や雑誌の頁数などに遠慮はしない。それだけの自信があったに違いない。
私は校正刷りを手にして、綱淵君は今や編集者ではなく、作家になりきっている
ことを改めて感じた。

 これを読んで、或る人はこう言うかもしれない。「お前、吉岡がやっていた雑誌
だから、綱淵は思い通りに書き込みをしたのだ。他の雑誌ならとうてい、やって
はないだろう」と。私はそうは思わない。

 綱渕君がもし、「斬」を「小説新潮」や「群像」に発表できても、編集者の困惑
を押し切って書き込みをしたに違いない。

 きれいな赤字で、几帳面に書き足してある校正は刷りは綱渕君の人柄がにじ
み出ていた。一字一句おろそかにしない、昔の職人の仕事ぶりを思わせるよう
な書き込みの仕方であった。

 綱斑君はこの小説を書き上げるまでの一年間、初校をを自宅で校正し、再
校は印刷所の出張校正室まで足を運んで校正した。連載が終わるまで一度
も欠かしたことはない。風呂敷包みから、おもむろに大きな封筒を取り出すと
、十何頁かの校正刷りを三時間近くもかけて熱心にやった。その姿は全く一
つに集中していると言うしか、表現のしようのないものであった。夜も12時近く
になり、編集部の人たちがそれぞれの担当の再校を終えても、綱淵君は、な
お熱心に校正していた。皆黙ってそれを見ている。若い編集者の中には、早く
終わることを期待して、イライラしている。

 担当の西野くんによれば、印刷所の職工は綱淵君の校正刷りが随分と手を
食う仕事であった。でも嫌な顔をするどころか、あまりの校正の見事さに感歎
していたのである。

 「斬」の連載三回目、四回目の原稿ができた頃、綱淵君は中央公論社を辞
めた。二十年近く務めた編集者としての仕事を小説家になるために思い切っ
て止める。これはなかなか今の世の中では出来にくいことだ。

 私がその辞職の話を綱淵君から直接聞いて、この人は「斬」にかけていると
その心構えに感心した。また雑誌を作っている者として、気の引き締まる思い
であった。

 ある日、綱淵君は困ったような顔で私に言った。

 「単行本は新評社から出してくれるという約束でしたが、この間、雑誌を持
て伺ったら,嶋中さんが出版部の若いものを呼んでウチから出してもいいと
言っているんですが」

 私はそれを聞いて、そのほうが良いと思った。私としては新評社から出し
たいが、綱淵君の立場からすれば、いや全ての新人なラ作品を世に問うな
ら、多くに人に読んでもらうためにも中央公論社から出したほうがいいのは
分かりきっている。

 私は中央公論社会長の嶋中氏に綱淵君への好意を感じた。何年か前に、
中央公論の社員だった利根川浩君が、「宴」を書いて自信を抱き、作家生活
に入るため、社を辞める時に、嶋中氏やジャーナリスト、文壇人を集めて賑
やかなパーティーを開いた。そうした意味で、嶋中氏は綱淵君への餞として
「斬」を中央公論から出していいと言ったのではなかったか。

 だが意外だった、何ヶ月か後、私は嶋中氏にあった。

 「綱淵君がお世話になりました」と嶋中氏。

 私は恐縮し、

 「あの作品は中央公論から出すんですね」

 「いや、そのような話はないです」

 私は綱淵君が嘘を言うハズはない、これは嶋中氏の思い違いでは、とさえ
思った。

 最後に嶋中氏

 「ね、吉岡くん、長いこと編集部にいたらあれくらいの作品は書けますよ
ね」

 私は嶋中氏の真意を測りかねた。今でもわからない。

 「斬」は結局、河出書房から出版されることになった。これについて綱淵君
から経緯は全く聞いていない。




 直木賞受賞後、井上ひさし氏と対談、握手する綱淵謙錠氏

  
  
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