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zoom RSS 大逆事件と明科(あかしな)

<<   作成日時 : 2017/07/23 21:44   >>

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  大逆事件は明科において宮下太吉が爆裂弾の製作を試み、実験した
ことに始まる。その意味で明科は大逆事件の原点のような場所である。
明科と大逆事件の関連をテーマとして内川美徳氏(大逆事件を考える会)
が2010年に雑誌に発表された文章はまことに貴重である。稀有な内容で
その雑誌も入手は容易でもないので、ここに一部転載させていただく。


   大逆事件百年と明科


  暗黒裁判として知られている大逆事件・明科事件は長野県東筑摩郡
中川手村明科(現在の安曇野市明科)の地で、爆裂弾の試爆により、1910
年(明治43年)5月29日に宮下太吉が逮捕された。事件の苦難はここから
始まったのである。

 当時の明科は、河岸段丘の広がりの中に、民家が増え始め、家並みが
出来つつあった。豊かな水量の犀川は自然の流れの中で、地の利を利用
した産業が起こりつつあった。その一つとして、官営の明科製材所が1908
年(明治41年)10月に操業を始めた。上流の各地域から伐採された木材を
筏に組んで、合流地点の明科に集材し、トロッコで貯木場に運び込んでい
た。その跡を今もわずかに見ることができる。

 翌年の1909年6月に宮下太吉は、愛知県の鉄工所から機械工として転勤
してきた。製材所は蒸気機関が二台稼働しており、工場の北側には大きな
煙突が聳えたっていた。

 宮下太吉が爆裂弾の実験をした場所は、推測されても特定はされず、今
日に至っている。というのは、警察の現場検証がなされたという具体的な
記録が残されていないためである。実験日すらも推測の域を出ない。

 現場と言われている大足地積のなつな沢一帯は、蛇行する会田川の水
流が、断崖にぶつかりながら、波音を立てており、闇夜であれば秘密の行
動をするのには条件が良かった。その日は11月、松本では天長節に合わ
せて、お祝いの花火が打ち上げがあり、これに合わせて爆発させれば、気
づかれることはないだろうという説と、恵比寿講の打ち上げ花火に紛れる
ようにしたのでは、という説がある。私はパソコンで百年前に遡って午後7
時頃の夜空を調べた。3日は月の出ない闇夜であり、23日は10三日月で
あり、光度は増している。

 3日の新月直後の山間は暗く、月明かりのない,電灯もない当時の現場
では、曇っていれば漆黒に近く怪しまれることはない。試爆は計画通り終
えることができたのではないか。戦後間もない頃の古老が、声を潜めて
話してくれる時はあっても日にちの記憶は曖昧であり、決まって周囲に気
を配りながら、小さな声になっていた。

 事件後の影響は日常の生活に微妙な影響を与えた。ひとつに宮下太吉
は甲府の出身で身内という関係はなかった。それでも結婚話があると、宮
舌姓が多い地域であるがために、破談になったという話は聞いた。事件当
時の村内有力者の一部には、国家体制へのへつらいじみた、気の使い方
があったりした。事件は我が村の大いなる恥辱とされていた。それは戦後
も続いた。だから事件について触れることはタブーであった。

 戦後間もなくして青年団活動が活発化されるに連れて、語ることさえ避け
るようにしてきた、その村で起きた大逆事件について勉強しようという気運
が高まった。意識の中には戦前をなお払拭できないものはあったが、反発
心も伴って若者らしい新鮮さが溢れていた。こうした背景の中には、かって
大杉栄らと行動をともにしていたこともある、望月桂氏の存在が大きかった
。戦争を挟んで氏は戦後、明科に戻っており、戦後の民主化の進む中で農
民運動にも力を入れており、存在感は大きかった。特に大逆事件について
取材で訪ねる人は多く神崎清氏は望月氏の案内で地区内を隈なく歩いてい
る。

  明科での戦後の大逆事件にまつわる概要

 1946年 戦前から事件に着目していた人が課題として取り上げる

 1949年 村内青年グループの研究が始まる

 1952年 大逆事件事跡の標柱礎案の申請

       青年グループと坂本清馬氏との書簡の交換

 1955〜1971年  青年グループの研究継続

 1976年 正春寺追悼会出席 (以後毎年1月)

 1977年 明科町公民館に大逆事件コーナー設置

 1980年 塩田庄兵衛教授講演会

 2001年  大逆事件標柱建立、町理事承諾

 2002年  「大逆事件」の「考える会」再発足

 2003年  町理事者よろ「考える会」の標柱建立、案文の委任を受ける

 2004年  教育委員会によって標柱が建立される。表示分に違和感が
       あり、異議の意見を提出。

 2005年  紀州グループの訪問を受ける

 事件から長い年月がヘて事件を知るための青年たちの動きは新たな
地域のエネルギーとして注目された。その中で夭折したものもいる。新天
地を求めて去った者も入る。今日まで青年グループの役割をひきついで
いるのは望月明美氏である。

 暗黒裁判として、権力の非人道性を浮き彫りにした例もない大逆事件
、明科事件はこの地、明科が発端である。冤罪、でっち上げ、無実という
事実を隠蔽しての権力犯罪がこの地から始まったのである。多くの家族
や関係した人々の言語に尽くせない苦難と犠牲である。

 明科でも事件を知る人は少なくなっている。郷土の歴史の記述でも、そ
の事件について記されることはめったにない。明科におけるいきさつはあ
るが、民主主義の基本を求めていく上でも、その事件の跡を留めて後世
に知らせなければならない。

  大逆事件の集まりに望月明美さんに代わって東京の正春寺にでかけ
た。幾つかの発表の中で管野須賀子が拘置所で綴ったという針穴の手紙
、が報告された。百年を経た白い文字、和紙に針で穴を開けて文字とした。

 彼ハ何モシラヌノデス、・・・・・・と、彼とは幸徳秋水。私他三名は死刑に
なるが幸徳は何も知らないのだから、弁護してくれ、という内容であった。
まさか12名の死刑。12名の無期、2名が長期になろうとは。

 計画したのは3名だという手紙が明らかにされた手紙は百年もの間、眠
っていたのである。


                            彷書月刊 2010年4月号


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