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zoom RSS 岡田嘉子を突き動かした魔性

<<   作成日時 : 2017/05/07 00:05   >>

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嘉子は日本映画史上でもまことに特異な女優である。その奔放な
恋の遍歴、魔性に突き動かされての恋の逃避行、モスクワから800キロ
離れた収容所に入れられてその後、モスクワ内の刑務所に、同室だった
ロシア人女性は、岡田嘉子が入ってくるなり、

 「私って男を奪うために国境を密入国して捕まったお馬鹿さんよ、お馬鹿
さん」と自ら語ったそうである。その時の表情を再現して見せている(NHK・B
S 心の旅)マリアンナ・ツインさん

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  1934年、昭和9年、松竹の「隣の八重ちゃん」出演時、役柄にしても、
やや不潔感を感じさせる

  
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  長い収容所生活を帰国後、従軍看護婦として働いていた、朝鮮人医師と
結婚していた、などと虚偽を述べ続けたのも、真実は決して語らないという
ソ連政府との約束があった,ともいわれている。最後までその意味では演技
をし続けていたわけだが、・・・・・

 拘禁時代のやつれた岡田嘉子の写真、NHKによる岸恵子さんなどの取材
で明らかになった。1938年モスクワにて。(上掲の写真はその拡大)

 
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 収容所から岡田嘉子が書き送った嘆願書を見せてもらっている岸恵子

 
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 1939年から1943年ころまでいたビャとか収容所の女囚棟の残骸

 
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 岸恵子さんの取材でその収容所にいた男囚の話

 「私は彼女を守ってあげる役目をしていたよ。かの女はいつも焚き火をしな
がらすみっこで泣いていたよ」

 その顛末はどうだったのか

 恋多き女、魔性の女の岡田嘉子の選んだ道

 「荷物を捨てろ!」と同行の杉本良吉は岡田嘉子に向かって叫んだ。積雪
をかき分けて樺太の日ソ国境線を超えた杉本だった。後ろからは必死に日本
の国境警備兵が追跡してくる。もう必死んだった。後方から射撃されるのでは
、と杉本は気が気でなかった。

 息をせいて国境線からソ連領にある程度入り、もう日本への追撃がないと
いうとき、ソ連の国境警備兵がやって来た。岡田嘉子はソ連警備兵の胸に
倒れ込んだ。全ては大成功と思い込んで杉本良吉はロシア語でソ連警備兵
に向かって「我々は日本人だ!亡命したい」と叫んだ。

 正確には1938年、昭和13年、1月3日、午前6時だった。女優の岡田嘉子、
当時35歳は恋人の演出家の杉本良吉、当時30歳と破天荒な逃避行を決
行した。もちかけたのは岡田嘉子だった。日本警備兵に「日ソ国境を一度
見たいから案内してくれ」と言って、まさか越境を計画しているとは日本警
備兵も夢にも思わず、唖然として追跡もはかどらなかった。

 スキャンダルにもまみれていたが著名な美人女優の男同伴のこの越境
は世間を驚愕させたことはいうまでもなかった。
 
  広島市大手町出身の岡田嘉子、17歳での初舞台、新劇でスターにのし
上がった。何よりもその世にもまれな美貌が売りだった。私生活はこれは
浮名を流す、奔放なもの。

 その恋多き女、女優の岡田嘉子が1936年、舞台の公演に際して演出家
の杉本良吉に協力を求めたことがこの恋の発端だった。だが杉本良吉は
共産党員である。1932年、宮本顕治からコミンテルンと連絡を取るためモ
スクワ行きを命じられたが密航の船がなく断念した。治安維持法下の日本
の弾圧は徹底していた。もはや杉本の逮捕、懲罰召集も目の前であった。
このまま、日本の戦争に押し込められて無残な死を遂げるくらいなら、と
岡田嘉子の越境逃避行の話に乗った。

 帰国後、岡田嘉子はこう語っている。

 「越境しようということは私から持ちかけたものでした。その瞬間、杉本
の顔がぱっと明るくなったようでした。杉本は『もし首尾よくモスクワに行
けたら僕はコミンテルンの仕事もあるし、君は演劇の勉強をすればいい
』と嬉しそうにいいました」

 もはや日本の鉄の嵐のような弾圧の現実を前にして杉本にしても岡田
嘉子の破天荒な計画も、まさに渡りに船であった。有名女優の岡田嘉子
だからこそ日ソ国境を実際に見たい、警備兵を慰問したいといって別段、
怪しまれもしなかったのである。まさか有名女優が越境を企てているなど
夢にも思わなかったのである。まさしく岡田嘉子の魔性であった。

 ★樺太の雪原に消え去った岡田嘉子と杉本良吉、その後の二人がど
唸ったのか、日本人には杳として知るすべはなかった、・・・・・が

 ソ連警備部隊に保護されて後、杉本は成功を確信し、岡田嘉子に向か
って、

 「有名女優の君のお陰でソ連に来れたんだ。感謝するよ、君には一生
、頭が上がらないよ」

 といった。

 だが思い描いたソ連での夢は儚く砕け散った。

 日本が近代天皇制の治安維持法ファシズムの弾圧の嵐ならソ連はス
ターリン独裁の大粛清の嵐であった。1937年には「粛清指令書」が発布
され、恐るべき密告、監視の煉獄の如き様相を呈していたのである。軍
幹部から一般市民にいたるまで片っ端から断罪され、処刑されたり、収
容所に送られたのである。まさいてソ連政府が想定する日本人スパイの
モデル、左翼インテリ、共産党員を装ってソ連潜入、が杉本と一致したた
めに、・・・・・杉本が極秘任務を記した「マンダート」不所持であった点も
不利に働いた。

 1938年1月3日に越境密入国した二人は1月7日、密入国容疑で逮捕さ
れた。二人は別々に離されて樺太のアレクサンドロフスクに連行された。
その別れ際、嘉子はすがりついて泣きじゃくった。最低限の必要なロシア
語、「わりがとう」、「トイレ」、「さようなら」をその時なお杉本は嘉子に覚え
させようとしたという。

 収容所時代、嘉子はソ連政府に多くの嘆願書を書き送った。

 「取調べは大変厳しく、私たちは座ることも許されず、たったまま、五日
間、眠ることも許されませんでした。私の体は耐えられなくなり、精神状態
にも異常をきたしました。キムという朝鮮人通訳が、スパイだと認めれば
許されてソビエトの人間としてもらえるが、そうでないと日本に帰すとい
っている。日本の監獄で一生を送るくらいなら、ソビエトの監獄に入れられ
るほうがいい・・・・」

 かくして杉本は否認を貫いて拷問を受け続け、その悲鳴を聴きながら
嘉子はスパイと認めざるを得なかった。それみたことかと杉本はさらに
拷問を受け、遂に「私は日本陸軍参謀のスパイで有名な演出家メイエル
ホリドと組んで観劇中のスターリンを狙うようにとの指令を受けました」と
自白!させられてしまった。芸術家文化人まで次々と粛清の嵐のソ連の
スターリン独裁、メイエルホリドも杉本の自供で銃殺刑に処せられた。

 1939年10月27日最高軍事法廷は岡田嘉子に「自由剥奪10年」杉本には
10月20日、「銃殺刑」が言い渡された。

 岡田嘉子はモスクワの未決監獄を経てビャトカ収容所にほうりこまれた。
1943年にモスクワの刑務所に移され、1947年釈放された。日本に帰国後
は看護婦として働いた、愛称で呼ばれて人気があった、朝鮮人意志と結婚
していた、などと虚偽を話し続けた、さも真実のように。1938年から1947年
までの10年間の監獄生活は死ぬまで語らなかった。

  本当に看護婦として働いていたのか、岡田嘉子の語った場所でテレビ
出演までして情報を求めた岸恵子、実際に看護婦だった人とも面会、誰一
人、岡田嘉子を知らなかった。

  
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 1947年、保釈時の岡田嘉子

 
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 岡田嘉子という女優は一人の人間としてどうだったのだろうか。あの苦難を
通り超える収容所を生き抜いたのである。ビャトカの収容所でも男囚に襲わ
れる危険も度々だったが、歯を櫛歯って森林の伐採などの労働に耐え抜いた
.魔性の女、というのは事実である。事実だがそれに終わらない、何かが岡田
嘉子にはあった。

 ことの異常さの最たるものは日本国内では女優として確立された名声と
人気を勝ち得ていて、それを投げ捨てて杉本という一人の男を得るために
、ソ連に越境密入国するという、常軌の逸脱では済まされない情の深さの
ようなものであろう。雪原に消える有名女優をただ、この世の出来事とは
思えずあ然として見守った日本警備兵だった。

 釈放後はモスクワ放送局のアナウンサーを経て年念願の演劇大学に51歳
で入学した。

 日本に帰国できたが、やはる運命の地、ロシアで生涯を閉じることが彼女
の堅い信念だったようだ。日本は捨て去った国、・・・・私はロシア人、である。

 1992年モスクワで岡田嘉子逝去、享年89歳。

 
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