つぶやき館

アクセスカウンタ

zoom RSS 樺美智子、・・・’60年安保のジャンヌ・ダルクだが

<<   作成日時 : 2017/05/20 00:54   >>

トラックバック 0 / コメント 0

 
画像
こうも社会の風潮が何もかも右翼、保守に押し流される時代では、もはや
’60年安保の熱気を語るにせよ、冷酷なネトウヨ的反応しか出てこないもの
である。だが紛れもなく、まだ戦争の惨禍の記憶が生々しかった日本国民
、日米安保という集団的自衛権を平和へのこの上ない脅威と受取り、国会
前の超大デモとなってその平和への欲求は爆発した。

 その安保反対デモの頂点において東大生の樺美智子の死亡事故が起
きたわけである。60年安保の象徴とまで偶像化され、反安保s闘争のジャン
ヌ・ダルクとも称された樺美智子だが神戸高校の出身である。なぜ神戸高
校なのかといえば、父親の社会学者の樺俊雄が神戸大学文学部に奉職
していたからである。伝統を持たぬ神戸大学文学部だったが、この頃から
一つの特徴が社会学となった。

 神戸高校ではトップクラスの成績だった樺美智子だったが東大受験は一
度は苦汁をなめた。浪人での入学となった。

 その安保闘争、安保反対デモ、1960年6月15日、国会議事堂前で起きた
樺美智子の死亡事故。この日、国会南門前に集結したデモ隊の数は学生
が約7000人、雪崩を打って国会構内に突入した学生たちは警官隊と衝突
し、激しい放水、催涙弾の中での乱闘となった。この騒ぎの中で樺美智子
さんが死亡した。

  
 その死因は長く議論されて入るが解剖の所見では。窒息死、また圧迫に
よる内臓出血、とされこの2つが同時に起きたと考えられた。が、これがいつ
、どのようにして引き起こされたかとなると今でも明確な回答は出ていない。

 検察側は人雪崩現象の下敷きを主張し、調査委員会は周囲にいた学生
などの証言から警官隊による暴行によるという結論を出した。樺美智子さん
の死因はその後もくすぶり続け、確たる結論は出ていない。

 が、ともかく安保反対デモの最高潮、国会構内突入のさなかの東大女子
学生の死亡事故は大きな衝撃を与えずにはおかなかった。6月16日朝には
樺美智子さんの死を悼み、抗議の市民、学生ら3万人が国会から警視庁前
を埋め尽くし、終日、抗議デモは続いた。6月18日には東大で合同の慰霊祭
が行われ、終了後、参加者は国会までデオ行進した。このとき、約33万人


 だが岸内閣により新安保条約は6月19日、国会の自然承認となった。デモ
対の思いは通じなかったが、その後も反対運動は連綿と続き、70年安保反対
運動となった。

 樺美智子は1937年、昭和12年二人の兄を持つ末っ子として生まれた。父の
樺俊雄は中央大学教授だったが、その後、戦後、新設の神戸大学文学部教
授となって赴任し、餅粉は神戸高校に進んだ。東大入学後はまず共産党に
入ったが、二年で脱党し、ブント派に入った。ここからデモや集会に出るように
なったが、その素顔は真面目な学生だった。死の直前はともに卒論について
語っていたという。その青春の葛藤は「人知れず微笑まん」というタイトルの遺
稿集に心情を込めて語られている。

  文学部国史学科の学生で教育実習に笹塚中学へ、運動会当日
、生徒が撮す。

 
画像


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文
樺美智子、・・・’60年安保のジャンヌ・ダルクだが つぶやき館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる